たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

実を伴った論理で

2013-10-21 03:02:30 | Weblog
 現実味の無い理屈に興味は無いし、理想を無視した現実のルールにも興味は無い。
 気持ちの領域以外で俺が唯一興味あるのは、実を伴った論理だ。

 自然現象に宿っている原理を抽出するのが理学の目的であることを、もっともっとみんなが思いだせば、こんなにも無意味な結果ばかりを提出せずに済むのだろう。
 論理化するための論理や、現象を把握するための現象理解をしていっても、それらはなんの結果でも無い。自然科学を志す分野の人達は、このことをもっと意識すべきだ。

 実験はひとつの点ではないし、理論モデルもひとつの点ではない。どちらも、いっきにいくつものことが言えて、はじめて必要であるのだ。
 だから、既存の理論のなかの条件不足と現実との不一致を考慮した中で、新たな論理体系を創る為に、一番コスパーのイイ実験をするべきだし、既存と新規が直接結びつくような論理展開にしなきゃだよね。

 同じことは日常でも言える。

 理想だけを追い過ぎても、現実だけを見過ぎても、歩みは止まってしまうものだ。浮世離れして妄想ばかりしていてはダメだし、理想を忘れて無難さを追求してもダメ。理想を確かに想いのなかに詰め込みながら、現実をしっかりと直視していく。そうじゃなきゃ楽しくはならないし、楽しくするためのメソッドは思いつかない。
 主体的じゃないほうが得してしまうようなこの世の中で、他人任せじゃなくて楽しむためには、実を伴った論理を極めることが大切になってくる。

 今はどんなに無意味な研究テーマでも、やる人が変われば、素晴らしいテーマになりうる。
 それは、人の心の問題であって、心が変われば、同じ人でもそうなるのだと思う。その気持ちが、何かの情熱であるのなら、きっと上手く行く。自分のくだらないプライドで許せなかったり、実力や能力が何も無いからって、習慣に落とし込んだりして他人を説き伏せようとしても、何の得にもならない。

 それと同様に、この生活の中でも、自らが何かの情熱をきちんと持ちながら、実を伴った論理で、できることをしていけば、必ず報われるのだと思う。

 ただ、これだけでは、俺はダメだ。
 そんな風なスタイルそのものが、すでに輝かしい理想すぎて、行き場を失っている人に対して、差し伸べられる左手にもなれなくちゃいけない。前に、俺自身が、そうされたように。

 そのためには、ありのままをありのまま見つめることがキーになってくると思っている。俺の周りには、自分は現実が観えている、よく分かっている、と勘違いして諦めている可哀相な自称大人が多いから。
 きっと、もうすぐ何かが変わるはず、変えることができるはず、っと思いながら、日々、想いを温め、思考を巡らせている。
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