選択肢は単純に多ければ多いほど良いような気がする。
勉強も出来るし、運動も出来るし、芸術的センスもあるし、Aグループだし、ノリが良いし、なら、選択肢は無限大だ。
例えば教育を行う時に、こういう種々の分野のなかで、自分はひとつ以下だなっと感じさせてはいけないと思う。
だから、ノリがイイ子には、ノリの良さを認めることはもちろん、勉強でも認めてあげたいし、そのためには、そのすでに持っている価値観の中で、その子にとっての新しい分野の価値観を受け入れられるような教授をしないといけないと思う。そして逆に、賢い子には、お勉強で立派なことは伝えつつ、ノリの良さだとか、友達の多さだとか、そういうことの価値観を持って欲しいと思う。頭が柔らかいうちにね。
広い意味での選択肢をプレゼントできることが、教育では必要なのだと思う。
この選択肢、何が目的かというと、寂しさを埋めるためだ。何か1つで認められれば、確かにそれでイイのかもしれないけど、どんなことでも調子の悪い日はあるし、上には上がいるし、崩れゆきやすいモノだと思う。
だからこそ、複数の価値観を持っていると良いんだよね。広い意味で、諦めないから。お勉強や仕事で認められる一方、自分には友達が多いから、そういうノリの良さもあるんだ、とか、楽器を沢山の種類扱うことができるんだ、っとか、助ける、話を聴いてあげる能力にかけて天才的だ、とか、とにかく沢山の選択肢や価値観を持っているとイイ。
誰だって、罵倒されたり、ダメだしされ続けたら、イヤになっちゃう。一晩寝れば忘れる、なんて、ウソだ。
寂しさを埋めるための、価値観の選択肢が沢山ある、ってのは、認められうることが沢山あるってことだから、やっぱり、なるべく沢山の選択肢を持つことが必要なのかもしれない。
だけど、、どう?、本当に、そういう能力依存で、誰かに認められるだけで満足??選択肢を増やして、本当の意味で寂しさが無くなるのかな、って考えてみると、また話は別だ。
俺は、非常に有り難いことに、人よりも、寂しさを紛らわすことに関しては、選択肢は多いと思う。そういう状態の時は、わかっててやってる。本当はここで、この人に、こんな風に、完全に全部認められたいのに、って思いながらでも、どこかで即物的に認められると、気持ちの表面上ではウハウハすることができる。
でも、ふとしたときに、悲しさが襲ってきて、なにやってるんだろー、ってなったりする。すげー楽しいんだけど、何かが足りない。まぁ、こうなっても、表面上の認められ方が無いよりはマシなんだけど、俺が求めてるのは、その向こう側なんだよね。
沢山ある選択肢のなかで、人によっては取り返しのつかないことをしてしまうこともあるし、昔の関係性の糸をゆっくりゆっくり辿ったりしてみたり、滑稽な姿をさらしたりしてしまう。
あと、俺がよくなるのは、気持ちを悟られないように、極端に機械的になってみたりね。
One of themではなくて、本当は、とか、ホンモノ、であるかどうかの見破り方は、具体的に表に出ないだけで、実は非常に簡単に判別できる。
間のとり方、表情、声色、視線、振る舞い、色々なことから、算出できる。ホンモノは、どんな熟練者でも、絶対に一瞬だけは、演技できない。だからホントに簡単。
実質的には沢山の選択肢があったけど、それがすべて無価値に想えるようなモノこそがホンモノで、そうなってしまえば、何かの能力のあるなしで、悩む必要なんてないんだと思う。
まぁ、それは完全な理想状態で、現実では、時間発展を考慮に入れて、考えてないんだけどさ(だから、能力を向上しようとすることは必要だってこと)。
答えは決まっているんだけど、今の状況が答えというわけではない、ってときに、何が出来るか、をちゃんと考えないといけないよね。どっちも。
日常のなかのターニングポイントを忘れないように。
勉強も出来るし、運動も出来るし、芸術的センスもあるし、Aグループだし、ノリが良いし、なら、選択肢は無限大だ。
例えば教育を行う時に、こういう種々の分野のなかで、自分はひとつ以下だなっと感じさせてはいけないと思う。
だから、ノリがイイ子には、ノリの良さを認めることはもちろん、勉強でも認めてあげたいし、そのためには、そのすでに持っている価値観の中で、その子にとっての新しい分野の価値観を受け入れられるような教授をしないといけないと思う。そして逆に、賢い子には、お勉強で立派なことは伝えつつ、ノリの良さだとか、友達の多さだとか、そういうことの価値観を持って欲しいと思う。頭が柔らかいうちにね。
広い意味での選択肢をプレゼントできることが、教育では必要なのだと思う。
この選択肢、何が目的かというと、寂しさを埋めるためだ。何か1つで認められれば、確かにそれでイイのかもしれないけど、どんなことでも調子の悪い日はあるし、上には上がいるし、崩れゆきやすいモノだと思う。
だからこそ、複数の価値観を持っていると良いんだよね。広い意味で、諦めないから。お勉強や仕事で認められる一方、自分には友達が多いから、そういうノリの良さもあるんだ、とか、楽器を沢山の種類扱うことができるんだ、っとか、助ける、話を聴いてあげる能力にかけて天才的だ、とか、とにかく沢山の選択肢や価値観を持っているとイイ。
誰だって、罵倒されたり、ダメだしされ続けたら、イヤになっちゃう。一晩寝れば忘れる、なんて、ウソだ。
寂しさを埋めるための、価値観の選択肢が沢山ある、ってのは、認められうることが沢山あるってことだから、やっぱり、なるべく沢山の選択肢を持つことが必要なのかもしれない。
だけど、、どう?、本当に、そういう能力依存で、誰かに認められるだけで満足??選択肢を増やして、本当の意味で寂しさが無くなるのかな、って考えてみると、また話は別だ。
俺は、非常に有り難いことに、人よりも、寂しさを紛らわすことに関しては、選択肢は多いと思う。そういう状態の時は、わかっててやってる。本当はここで、この人に、こんな風に、完全に全部認められたいのに、って思いながらでも、どこかで即物的に認められると、気持ちの表面上ではウハウハすることができる。
でも、ふとしたときに、悲しさが襲ってきて、なにやってるんだろー、ってなったりする。すげー楽しいんだけど、何かが足りない。まぁ、こうなっても、表面上の認められ方が無いよりはマシなんだけど、俺が求めてるのは、その向こう側なんだよね。
沢山ある選択肢のなかで、人によっては取り返しのつかないことをしてしまうこともあるし、昔の関係性の糸をゆっくりゆっくり辿ったりしてみたり、滑稽な姿をさらしたりしてしまう。
あと、俺がよくなるのは、気持ちを悟られないように、極端に機械的になってみたりね。
One of themではなくて、本当は、とか、ホンモノ、であるかどうかの見破り方は、具体的に表に出ないだけで、実は非常に簡単に判別できる。
間のとり方、表情、声色、視線、振る舞い、色々なことから、算出できる。ホンモノは、どんな熟練者でも、絶対に一瞬だけは、演技できない。だからホントに簡単。
実質的には沢山の選択肢があったけど、それがすべて無価値に想えるようなモノこそがホンモノで、そうなってしまえば、何かの能力のあるなしで、悩む必要なんてないんだと思う。
まぁ、それは完全な理想状態で、現実では、時間発展を考慮に入れて、考えてないんだけどさ(だから、能力を向上しようとすることは必要だってこと)。
答えは決まっているんだけど、今の状況が答えというわけではない、ってときに、何が出来るか、をちゃんと考えないといけないよね。どっちも。
日常のなかのターニングポイントを忘れないように。
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