そのⅣ―[亡妻に愛の嘘を吐く清]―
これまで清は、公子の誕生日にプレゼントを贈ったことがなかった。
仕事が忙しくて余裕がなかったというのも理由の一つではあったが、公子は、自分の誕生日に小さなトラウマを抱えていた。
公子の誕生日は4月1日。エイプリルフールである。
そのため、子供の頃からよく友達にプレゼントだと言った後、「うっそー」とからかわれたのだと言う。それで、清と公子が恋人になってからも公子のほうから別の予定を入れたりしてプレゼントを受ける場面を避けていた節があった。
それでも、最後の誕生日だけはちゃんと祝ってやりたい、清は、そう思って過去にやってきた。
プレゼントのネックレスをじっと見つめる公子に、
「誕生日、おめでとう……」と、清がそっと囁いた。すると公子は、
「主人がそう言ったのですか……?」と、驚いた眼で清を見た。
「ええ……」
清の返事を聞いたとたん、公子の目から大粒り涙が零れ落ちた。
公子の涙の真意が、理解できなかった清は、恐る恐る「どうかなされましたか」と尋ねた。
「実は今日、主人から別れ話を切り出されるのだと思っていたんです……」と公子は答えた。
清は耳を疑った。思いもよらぬ言葉だった。
清は、(過去に戻るついでに、全然、別の世界に来てしまったのではないか?)と、思ってしまうほど衝撃を受けた。
「差し支えなければ、そこのところ、詳しくお聞かせいただけますか?」
清は、刑事の聞き込みの時によくする言葉が口から出た。
公子は、深呼吸してから静かに話し始めた。
「ここ半年ほど、主人は険しい顔をしているばかりで、会話らしい会話もほとんどなく、仕事柄、家を空けることも多いですし、帰ってきても、ああ、うん、ごめん、疲れているから、しか言わなくて……」
公子は、目頭にハンカチを当て、
「今日は、大事な話があるからって言われて……、きっと、別れたいって言われるものだと……」と、涙声で絞り出すように説明した。
清は面食らっていた。別れ話をするなんて、考えたこともなかったからだ。
辞めたいと思っていることを公子に悟られないようにするために、清は無意識に公子との会話を避けていたのだろう。その態度が、公子の目には別れを切り出す前の倦怠期に映ったのだ。
(まさか、こんな思いをさせていたとは……)
人の心は本当に分からない。
清は、目の前で泣いている妻に、何を言えばいいのか分からなかった。
今、公子にとっての清は、たまたま居合わせた赤の他人である。しかも、数時間後、彼女は事件に巻き込まれて命を落とす。
その事実を知っているのに、清にできることは何もない。
清は、ゆっくりとカップに手を伸ばした。手のひらに伝わる温度でコーヒーが冷めつつあるのを感じた。
次の瞬間、清は自分でも驚くような言葉を発した。
「私は、君と結婚してから、別れたいなんて一度も思ったことはありません……」
現実を変えられないことは分かっている。でも、公子がこんな不安な気持ちを抱えたまま亡くなるなんて、清には耐えられなかった。
たとえ、信じてもらえないとしても、自分の正体を明かし、たった一つでも、公子を苦しめている原因を取り除いてやりたかった。
「私は30年後の未来から来ました……」
目を丸くして自分を見つめる公子に、清はそう言ってはにかんだ。そして、
「大事な話というのは、別れ話なんかではなくて、……実は、刑事を辞めたいと、君に言おうと思って……」と呟いた。
清は、話を続けた。
「人を人とも思わない連中を相手にして…………疲れていたんだ。しかし、なかなか言い出せなくて……」
おそらく、コーヒーが冷めるまでに残された時間はわずかである。
公子が信じてくれるかどうかは分からなかった。でも清は、伝えておくべきことは伝えておこうと思った。
「でも安心してください。僕は刑事を辞めなかったし、……」
清はそう言った後、一呼吸おいて、
「君とも別れませんでしたから……」と、小さな声で囁くように告げた。
清のついた精一杯の嘘である。(君は、この後すぐに死んだとは言えなくて嘘をついた)
「やっぱり……清くん(高校時代からの公子の呼び方である)だったのね」
清は懐かしい呼び方に目頭が熱くなった。
「そのハンチング、ずっと使ってくれてたんだね」と、公子は嬉しそうに微笑んだ。
清が刑事になった時に公子からプレゼントされたのだ。
「仕事、辛かったんでしょ。……なんで、辞めなかったの?」
「君がいてくれたから……」
清の返事に迷いや躊躇はなかった。
ふと気づくと、こちらを見ていた要が、瞬きをしていた。
(そろそろですね)と、合図をしているのが、清には分かった。
「じゃ、私はそろそろ戻らなければならないから……」
「清くんは……それで、幸せだった?」
「もちろん」
清は答えて、一気にコーヒーを飲みほした。
ぐらり……
清を目まいが襲い、ゆっくりと、まわりの景色が上から下へと流れだす。瞬間、清の体は真っ白な湯気となった。
「これ……」
見ると、公子がネックレスを胸元に当て、
「……ありがと」と、幸せそうな笑みを清に向けている。
「……よく、似合っているよ」
清は照れくさそうに、はにかみ乍らそう言ったが、その言葉が公子に届いたかどうかは分からなかった。
(しかし、これからも一層、公子のために幸せな日々を過ごそうと思う気持ちは、いつまでも心に残っていることだろう)
終