スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ハル・薗田&住職来訪

2012-08-11 18:59:11 | NOAH
 馬場の配慮がかえって仇となってしまい,航空機事故に遭遇し還らぬ人となってしまったハル・薗田。彼は若手の頃は大仁田厚,渕正信と並んで三羽烏と将来を嘱望されていました。ただしこれは僕のプロレスキャリアが開始する前のことで,僕はその時代の薗田についてはまったく知りません。
 3選手はそれぞれ武者修行のためにアメリカに。最初に帰国したのは大仁田で,これが僕のプロレスキャリアが始まって1年経つか経たないかの頃ではなかったかと思います。全日本プロレス時代の大仁田は,何といってもチャボ・ゲレロとの抗争が最も有名でしょうが,それは僕も知っているということになります。
 最初からそうであったかは分かりませんが,薗田は当時はかつて馬場の好敵手のひとりであったフリッツ・フォン・エリックがプロモートしていたテキサスに。ここで後に全日本プロレスに逆輸入され一世風を靡したザ・グレート・カブキと合流。マスクを被ってマジック・ドラゴンを名乗り,カブキのパートナーとして現地のスターになりました。
 カブキが逆輸入で成功したということもあったでしょう,薗田もまたマジック・ドラゴンとして帰国。しかしカブキほどの旋風を巻き起こすことができず,いつしか素顔のハル・薗田に戻り,中堅のレスラーとして戦うことになりました。インドの狂虎から遠征を要請されたのも,この時代のことでした。
 これも僕のプロレスキャリア以前になりますが,三沢が全日本プロレスに入門してきた頃,薗田は三沢をとても気に掛けていて,よく食事に誘ってはプロレスの話をしていたのだそうです。その様子を周囲の人間はまるで兄弟のようだったと評しています。そして1984年に,三沢はメキシコに遠征し,タイガーマスクとして帰国することになるのですが,この時代の三沢タイガーとよくタッグを組んでいたのは,薗田でした。
                         
 三沢自身,薗田は自分にとってよき先輩であったという主旨のことを言っています。おそらく相談相手になり得た筈で,もしも薗田が健在であったなら,日本のプロレスの歴史も今とは異なったものとなっていたのかもしれません。

 この週の木曜日,7月12日は祖母の通夜と葬儀納骨などでお世話になった寺の住職がアパートを訪れることになっていました。
 このお寺は高野山真言宗であったのですが,この宗派はお盆に重きを置くようで,この時期の来訪は毎年の恒例となっていました。祖母の夫,つまり僕の祖父ですが,死んだのは僕が小学校5年生の時。当時は祖母は叔父らとともにの実家である大和在住でしたので,この翌年からはその大和の家に来訪していたものと思います。それが諸事情により祖母が僕たちと同居するようになり,近所にアパートを借りて,祖父の仏壇をそちらに設置しましたので,それ以降はアパートに来るようになっていたのです。祖母の死は昨年の暮れのことでしたから,新盆ということになりますが,新盆であるからとくに来訪したというものではありません。
 事前に寺の方からはがきで通知がありまして,来訪するのは午後1時頃になるということ。僕は参加できませんでしたが,叔父が時間をやりくりし,母とふたりで住職を迎えました。後で母に聞いたところによれば,住職は10分ほど読経して,すぐに帰ったとのことでした。正確にいますと,檀家はほかにもありますから,次のところ,これは東京であったとのことですが,そちらに向っていったとのことで,寺の方へ帰ったというわけではありません。滞在する時間がごく短時間であるというのも,例年と同様です。
 新盆ですから,墓参りもしようということで,その場で母と叔父の相談がまとまったとのことで,2日後の14日の土曜日に叔父が運転して大和の墓地まで行くとのこと。ただ,この日は僕は長者町に行かなければならなかったということもあり,一緒に行くことはできませんでした。ということでこれは母と叔父,妹の3人。また,家族葬に参列した僕の従妹とは現地で待ち合わせていたとのことですから,実際に墓参りをしたのは4人であったということになります。
 ところが,出掛けるという段になって問題が生じました。母の異変が生じる前に運転していた自動車は,僕の家の前にいつも停めてありました。この自動車が軽自動車であったのは,家の前まで入ってくる道が狭く,一般車では無理があったからです。
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王位戦&別の検査

2012-08-09 19:20:00 | 将棋
 兵庫県の有馬温泉で指された第53期王位戦七番勝負第四局。
 藤井猛九段の先手で角道オープン四間飛車。先手からの角交換を機に羽生善治王位は穴熊に。先手は向飛車に転換し,角を打って歩得に。後手も角を打って1日目が終りました。2日目に入って先手が8筋からの突破を目指したところで後手が中央から猛攻撃。先手が馬を作りましたがそれが角と交換に。さらに後手が4筋で飛車を切り,大きな駒損ながらも薄くなった先手玉に攻めを繋いでいかれるかどうかという勝負に。7九に銀を打って,成って,駒を取っていくというあまり早くない手順になったので先手も反撃に転じ,あまり堅くはなかった後手の穴熊も危ない形になりました。下図から観戦開始。
                         
 △3八銀成か△4八香成以外には考えられない局面で,実戦の指し手は後者。第1図の早逃げが効果を発揮している局面なので何か攻め合いを目指すのは自然で,▲1五桂を選択。△3八成香▲同金△同銀成▲同角成までは必然と思える進行。そこで△5七金と引きました。桂馬を渡せないので▲3九香の受け。部分的には攻めるなら△4七金か△3八同飛成ですが,△3三金と受けに回りました。これには▲4一角と繋ぐよりなさそうですがさらに△4二金打。こうされると▲2三桂不成△同金寄▲同銀成△同銀▲同角成までは仕方がないかと思いましたが,△2三同金寄に▲5二角成とこちらを取り,△3二金。▲5一龍とするのかと思いましたが▲4一馬でした。
                         
 これでは後手玉が簡単には詰みませんから後手の勝ちになったと思いました。△4七金でも勝ちそうですが△2六歩とより厳しく攻め,後手が勝っています。攻め合っても難しそうなところで穴熊の補修を成功させたうまさが光った一局であったと思います。
 羽生王位が勝って3勝1敗とし,防衛まであと1勝に。第五局は22日と23日です。

 この日は診察の最後に,U先生から話がありました。次回の通院,これは来月の3日に設定されたのですが,その日はいつもオーダーしている検査,すなわち採尿と採血による検査ですが,それ以外にももうひとつ別の検査を行うということでした。
 検査の詳しいやり方についてはその当日に説明するということでしたので,このときはその概要を知らされただけです。iPro2レコーダーという装置を使っての検査とのこと。このレコーダーにはセンサーがあって,どうもこれを身体に装着して行う検査のようです。つまりそのときだけで終了となる検査ではないようで,それを装着したまま生活することになるとのこと。僕の通院は必ず月曜日ですが,この検査を行ったら,おそらく同じ週の金曜日にまた通院し,それで検査の結果が分かるという仕組みになっているようです。実際にはこの程度の説明だけでは僕にも何のことだか分かりませんので,詳しいことは実際にこの検査を行ってから説明するということにします。
 診察が終了すると精算なのですが,この精算を終えますと,領収証と同時に予約票というのが発行されます。これは次回の予約日が印字されたもの。僕の場合,内科での通院は必ず検査と診察でセットになっていますから,2行になっています。予約日といっても,これは日付だけが書かれているというわけではなく,予約時間の方も示されています。検査の方は時間の指定はありませんが,診察の方には,その日の診察で医師に指示された時間が書かれているわけです。
 実はこの日,U先生は来月の3日に通院ということは言ってくれたのですが,診察の時間が何時になるかは言いませんでした。ですから僕はこれでそれを確かめようと思っていたのですが,この日は検査だけが印字されていて,診察は示されていませんでした。ということは,もしかしたら9月3日は,この装置を用いた別の検査の準備だけを行って,診察はもちろん,採尿や採血の検査も行わないということなのかもしれません。いずれにしても当日に病院に行けば,その日に何をするべきかが印字された紙が出てきますので,それで確かめる必要があります。
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北条早雲杯争奪戦&血糖値の統御

2012-08-07 18:40:29 | 競輪
 ロンドンオリンピックの自転車競技中の開催だったからというわけでもないでしょうが,前回のチームスプリントのメダリスト3名が揃って参加してきた小田原記念の決勝。並びは桐山に沢田,浅井-浜口-伊藤の中部,井上ー三宅-高原の西国で伏見は単騎。
 周回中の隊列は不明。前受けしていたのは浅井で,これを桐山が抑えにいったのが残り2周のホーム入口。ホームで桐山が叩くと,このラインに乗ってきた井上がさらに叩こうとするも桐山が突っ張って出させず。後方になった伏見がバックから単騎で上昇して打鐘。結果的に伏見のかまし先行という意外な展開に。桐山が番手を離したので,ここに井上。しかし三宅は離れ加減。井上の内で3番手を争っていた浅井が抜け出して捲り発進。これに合わせて2番手から井上も出て捲り合戦に。直線で一番外を伸びた浅井が井上を捕えて優勝。井上が2着で浅井マークの浜口が3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の久留米記念に続く連続優勝で記念競輪5勝目。ここは現状の力が上なのでまたチャンスだろうと思っていました。番手捲りの井上の上を捲ったのですから,強かったといっていいでしょう。夏場は若い自力選手が活躍する傾向にありますが,ただ今絶好調なのではないでしょうか。

 診察の予約時間である午後2時半までには,昼食も済ませまして病院の方へ戻りました。しかしこの日も待たされまして,実際に診察が始まったのは午後3時20分頃でした。僕の場合,本来の診察の間隔からいえば,翌週が該当日であったわけですが,その日がハッピーマンデーだったのでこの日に1週早まったもの。中央検査室に関しては非常に混雑していたというほどではなかったのですが,総合内科での待ち時間が長くなったのにはこれが影響していたものと思います。この日も前回と同様,外食のついでに週刊競馬ブックを買っておきましたので,その時間を持て余してしまうということはありませんでした。
 問題のHbA1cですが,これは7.2%でした。つまり以前の日本基準でいえば6.8%ということになります。僕のHbA1cは,日本基準では7.0%前後で推移していたわけですので,その頃の水準まで戻ってきたということになります。よって入院は回避できました。一応はには,入院する可能性についても示唆はしておきましたが,日々の血糖値測定の結果から,今回はそうも問題となるような値にはならないであろうということが僕には容易に推測できていましたので,僕自身は入院しなければならなくなるような事態に関しては,ほとんどといっていいくらい心配はしていませんでした。これも繰り返しになりますが,ある程度まで血糖値を安定した状態に統御できた原因に関しては,十分な睡眠時間を確保するようにしたこと,とくに夜は可能な限り早く床に就くようにしたこと以外には僕自身には思い当たることはありません。この日以降も,少なくとも現時点までは,同様に血糖値がコントロールできています。
 ただし,これは例年そうなのですが,僕の血糖値は夏場の暑い時期は,冬の寒い時期よりも明らかに安定して推移します。理由は分からないのですがこれは事実としてそうなのです。現在は1年のうちで最も暑い時期に該当するわけですから,この睡眠時間の確保ということによって,今後も同じように血糖値をコントロールしていくことができるのかということに関しては,もっと気温が下がる時期になってみないと何ともいえない部分はあります。
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ファイトマネー&本牧

2012-08-06 18:29:13 | NOAH
 フレッド・アトキンスにマネージメントしてもらっていた時代のファイトマネーに関して,馬場はそれをかなり詳細に明らかにしています。今で考えてもこれはかなりの高額なのですが,当時は現在とは為替レートも物価もまったく違いますから,そこまで考慮に入れればこれは破格です。
                         
 馬場は最初の渡米のとき,すでに当時の世界最高峰のNWA世界選手権に挑戦しています。これが1962年の6月。この頃馬場は,週給として100ドルをもらっていたそうです。実際のファイトマネーはもっと高かったのですが,あくまでもこれは武者修行として力道山から送り出されたもので,大部分は力道山が手にしていたようです。帰国したのは翌年の3月で,このとき力道山から15000ドルを受け取ったといっています。1ドルが360円の時代ですから540万円。ただ,実際は10万ドルくらいは稼いでいたようです。
 再渡米したのがその年の10月。その7ヶ月間は日本で試合をしていたのですが,そのギャラは1試合あたりで1万2千円であったとのこと。しかし渡米後は再び週給制に逆戻りし,前回よりは高かったものの,120ドルであったそうです。これは4万3千円弱ですから,日本で4試合すれば稼げていた額です。
 力道山が客死したのがその直後の12月。日本プロレスとしてはすぐにでも馬場に帰ってきてもらいたかった筈ですが,スケジュールが埋まっていたためアメリカで年を越しました。馬場自身,アメリカに残るか帰国するか,迷いはあったようですが帰ることを決断。するとアトキンスは週給制をやめ,ギャラがそのまま馬場の手に入るようにしてくれたとのこと。この間,馬場はNWA,WWWF,WWAと,当時の世界三大タイトルのすべてに挑戦しているのですが,その3試合だけでギャラは2万ドルを超えていたとのこと。2万ドルは720万円。当時の日本の大学卒業の初任給は2万5千円程度でしたので,これは途轍もない高額ファイトマネーであったといっていいのではないでしょうか。それだけ当時のアメリカのプロレス産業が活況を呈していたということの証明ともいえるでしょう。

 その翌日,7月8日の日曜日にはと妹で美容院に行きました。
 妹はあまり体力がある方ではありません。ですから基本的に週末は休息に当てています。日によっては昼過ぎまで眠っているということもあるくらいです。そう考えますとこの数週間の妹は,週末にしてはかなりの予定が入っていたといっていいでしょう。
 そしてその翌日,7月9日の月曜日が,僕のみなと赤十字病院通院の日でした。つまりもしもHbA1cの値が前回と同様に悪ければ,入院することになると言われていた通院の日です。
 この日は診察の予約時間は午後2時半。ということで12時15分に根岸駅を出るバスに乗っていきました。ここ2回ほど,中央検査室はとても空いていたのですが,この日は以前と同様で,そう多くはなかったものの何人かの患者が採血の検査を待っていました。ですので僕も普段通り,先に採尿を済ませてから採血をしてもらいました。この日はアームバンドを装着してもらえなかったのですが,もう採尿は終了していましたし,前回のように右腕ではなく,左腕からの採血でしたから問題はありませんでした。その場で5分ほど患部を押さえてから,病院の外へ。これも前回同様,外食のためです。
 ただしこの日は前回とは違った店にしました。というのは,診察の予約時間が前回は午後3時であったのに対して,この日は2時半だったからです。つまり前回は本牧まで出たのですが,この日はそこまでは行かず,小港にある店。病院は住所としていえば新山下で,小港というのは隣接した町です。実際には僕が小港といっている本牧通りの小港の交差点,これは山手警察署の前のことですが,ここはたぶん小港町と本牧町の境のあたり。しかし僕が本牧という場合には,これは本牧町のことではありませんで,この本牧通りをもっと根岸駅方面に向った一帯のことです。この辺りは本牧○○という地名がひしめいているのですが,僕が本牧というのはこちらのこと。紛らわしいかと思いますが,バス停でいえば本牧町,実際には本牧1丁目と本牧2丁目ですが,これは根岸駅からみれば小港より先。対して単に本牧というバス停は小港よりも根岸駅寄りにありまして,このことがたぶん僕の地名のイメージの源泉になっているものと思います。
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神の似姿&杉田

2012-08-04 18:33:58 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』のイワンの場合は,神が存在すると信じたいのだけれども不在なのではないかという疑問が拭えないという逡巡が描かれています。このとき,イワンが神の存在に対する疑問を抱く理由は,あまりに恵まれない子どもが現実に存在するという点でした。しかし,なぜそのことがイワンにそうした懐疑を生じさせるのかということは,問うてみる価値があるのではないかと僕には思えます。そして僕は,おそらく子どもというのが,神の似姿のひとつであるからではないかと思うのです。そしてこれは,イワンの逡巡というのが,実はドストエフスキー自身の逡巡なのではないかと思われるのと同様に,単に『カラマーゾフの兄弟』の数多くの登場人物のひとりであるイワンが抱いている神についてのイメージであるというよりは,ドストエフスキー自身がもっていた神のイメージなのではないかと僕には思えるのです。
                         
 ドストエフスキーは,好んで子どもが虐待されるシーンを書いているかのように僕には感じられます。そしてそれは,実は単に子どもが虐げられるということを意図して書かれていたのではなく,実はそういったシーンを通して,神への虐待ということをドストエフスキーは重ね合わせていたのではないでしょうか。
 そしてもうひとつ,ドストエフスキーが明らかにイメージとして神と重ね合わせているのが,癲癇の発作です。実はドストエフスキー自身が癲癇もちであったらしく,小説の中でこの発作のシーンというのは数多く登場します。そして,それは自身が実際に体験していることだからということもあるでしょうが,非常に仔細に描写されているのです。そしてそのとき,必ずといっていいほど何らかの形で神を感じさせるような筆致が現れています。癲癇というのは特別な病と考えられていて,これを神のイメージと重ね合わせるということは,必ずしもドストエフスキーにのみ特徴づけられることではないようなのですが,少なくともドストエフスキーの小説において,癲癇の発作が子どもと同じように神のイメージと重ねられているということは,そのように理解して間違いのないところであるといっていいと思えます。

 その2日後,日付でいえば7月7日の土曜日が,妹のこの月の土曜出勤の日でした。この日は妹が好きなボーリングが予定されていましたので,前々から本人も楽しみにしていました。
 土曜出勤の場合は,作業所へ送っていくのではなく,この作業所を運営している福祉法人の施設へ送っていくことになります。現在はが送っているわけで,僕に直接的に関係するわけではありませんが,施設は作業所よりも先にありますので,作業所に送っていくのに比べますとやや大変になります。ただしこの日は母はその施設へではなく,ボーリング場の方へ直接送っていきました。
 これには理由があります。
 東日本大震災の当日,僕は横浜駅の状況をみて,徒歩で帰ることを決意しました。ところがその途中で,運よく京浜急行のバスに乗ることができ,わりとスムーズに帰宅することができました。このバスは杉田行きのバスだったのですが,妹の作業所でレクリエーションとしてボーリングをする場合,会場は必ずその杉田にあるボーリング場だったのです。
 僕の家からみますと,杉田と作業所や福祉法人がある施設というのは,まるで正反対の方角です。したがってこのボーリング場に行くために,まず施設へ行って,そこからボーリング場へ向うとすれば,単純に移動ということだけを考えればあまりにばからしいのです。さらにいえば,ボーリング場へ僕の家から直接的に向うとすれば,施設を経由していくよりも出掛ける時刻を遅らせることが可能です。つまり妹からしてみれば,それだけ起きるのが遅くなっても大丈夫なわけです。なので土曜出勤がボーリングという場合には,母はこれまでも決まってボーリング場の方へ妹を送り届けていました。小脳出血で入院する前は,自動車で送っていたわけで,現在は状況は異なりますが,この日もそれまでと同じようにしたということです。
 なお,土曜出勤は必ず昼食込み。つまりボーリングを終えた後,どこかで食事をして,それから施設の方へ全員で戻って解散ということになります。施設はバス停でいえば4つほど作業所よりも先なのですが,ここからでも妹はひとりでバスで帰ってくることはできますので,迎えに行くという必要はありません。
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王位戦&エコー検査

2012-08-02 19:06:27 | 将棋
 南へ飛んで長崎市での対局となった第53期王位戦七番勝負第三局。
 羽生善治王位の先手で藤井猛九段の角交換四間飛車。1日目で銀が交換となり,先手は後手の飛車の成り込みを防ぐためにすぐにその銀を打つ将棋。僕はこの辺りは先手が少し損な指し方をしているように感じられました。ただその後,3筋で大きな振り替わりとなり,先手は駒損ながらその銀が捌ける形に。後手が龍,先手が馬を作っての攻め合いとなりました。
                         
 後手が銀を掛けたのに対して先手が金を引いたところ。△5八金と繋ぐのが筋に思えますが△5八銀成とし,▲3ニ歩と打たせて△6九金と絡んでいきました。▲同金△同成銀はほぼ必然で▲4八歩と遮断。後手は△1九龍と香車を入手。先手は受けずに▲3一歩成と攻め合いに。
                         
 ここで後手は△8六桂とただのところへ打ちました。銀では取れませんから▲同歩。△6八成銀もあったのではないかと思いますがすぐに△8七香と打ち,▲7八王△6八成銀▲同王△8九香成と進みました。先手はここも受けずに▲4二飛成から攻め合いへ。
                         
 後手は今度は△6五桂と打っていきましたが,第3図の飛車成りは40分の考慮で,先手は読み切っていたようです。僕にはまだ後手にも十分にチャンスがあるように思える局面でしたが,後手の攻めを凌いだ先手の勝ちとなりました。大熱戦の名局だったといっていいのではないでしょうか。
 羽生王位が勝利して2勝1敗に。第四局は来週,8日と9日です。

 月が変わって7月3日の火曜日,この日はの磯子中央病院の内科の診察でした。予約は午後3時で,この日は血液検査のみを行ったようですが,そんなに遅くなることなく帰ってきました。検査の結果の方は異常がなく,降圧剤の中止の措置を変更する必要はないとのこと。ただ,医師からはエコー検査もしておいた方がよいという指示がありまして,この予約を2日後の5日の木曜日に入れました。
 5日に予約を入れたのには理由がありまして,この日がちょうど脳外科の方の診察の日に該当していたからです。つまり,脳外科の診察と,内科の検査を同じ日に行うことができるようにするため。これならば病院に通う回数を1度ですが減らすことが可能ですので,非常に合理的であったわけです。
 脳外科は午前10時の予約で,この場合は僕が妹を作業所に送っていくことになっていました。ですから僕はこの日は午前中の予定を空白にしていたのですが,この日は妹がかなり早く起きてきまして,それならば妹を送っていってから病院に行っても十分に間に合うということでしたので,結局は母が連れていきました。作業所と病院は家からは逆方向ですが,作業所の最寄りのバス停からは病院の最寄りの停留所までのバスが出ていますので,それほど大変な移動というわけではありません。また,妹には一応は就業時間というものがありますが,作業所の職員というのは妹たちの就業開始時間よりは早くに出勤されていますので,ある程度であれば作業所に早く到着してしまっても問題はないのです。
 脳外科の診察の方ですが,前回は出血の痕跡が消えていないということが問題になったのですが,この日はそれについても何も言われなかったとのこと。ですからさほど気にしなくてもよいのでしょう。エコー検査の方でやり直しがあって時間が掛かったとのことですが,母は11時半頃には家に戻りました。なお,この検査の結果はこの日のうちには分かりませんで,7月31日に内科の通院が指定され,この日に結果を知らされるとのことです。実際にはもうその日を過ぎているわけですが,これについては時系列で,そのときにまた記すことにします。
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サンタアニタトロフィー&週末のショートステイ

2012-08-01 20:43:00 | 地方競馬
 実力拮抗のメンバーが揃い,1番人気を予測することさえ困難だった第33回サンタアニタトロフィー
 横並びの発馬からピエールタイガーが押して先手を主張。やや行きたがるのを宥めながらの逃げに僕には見えました。前半の800mは48秒4で,これ自体はハイペースといえるでしょうが,最初の200mから400mのラップが早かった分だけで,きちんと抑えは効いていたということになります。ゴーディーが外の2番手,3番手はディアーウィッシュが外にいて,内の4番手にファイナルスコアー。カキツバタロイヤルが5番手の外になりました。
 直線に入るまで一貫したラップが続いたので,外を回って追い上げる馬は苦しくなりました。結果的に前に行った2頭のマッチレースのような形となり,残り100mあたりで前に出たゴーディーの優勝。ピエールタイガーが逃げ粘っての2着。最後尾に近い位置から向正面で順位を上げ,直線で追い込んだシーズザゴールドが2馬身差の3着。
 優勝したゴーディーは昨春はクラシック路線を走り,秋から自己条件に転戦。近4戦はA級戦を2着,2着,2着,1着でここへの出走権を入手していた馬。戦績からみてもこの距離がベストで,その勢いのままに南関東重賞初制覇となりました。斤量面も恵まれていましたし,展開も絶好であったことは確かですが,この距離では今後も活躍できるのではないかと思います。父は短距離重賞2勝のプレシャスカフェで,母がアングロアラブというかなり地味な血統。Gaudyはスペイン語で派手な。
 騎乗した大井の赤嶺亮騎手はこれが南関東重賞初勝利。管理しているのは父の赤嶺本浩調教師で,サンタアニタトロフィーは初勝利。

 このウィークエンドのショートステイの利用は,作業所の方からの提案によってなされたものでした。すでに説明しましたように,施設に対するショートステイの依頼というのは,僕やがするのではなく,作業所から施設の方に申し込みます。そこで5月の段階で,6月のショートステイについて,週末を利用してはどうかという提案が母の方にありまして,母がそれに同意して決定されたようです。
 利用していたのは2泊3日のショートステイでしたが,今回の場合,同じようにしますと帰宅するのが24日の日曜日ということになります。この帰宅の日は,荷物が多いですから,妹の支援のひとつとして実施されていた家までの送りというのを利用していたわけです。しかしこのサービスは作業所によるサービスなのであって,ショートステイ先のサービスではありません。また,仮に何らかの理由によって,このサービスの実施が困難になってしまったとしても,作業所からならば妹はいつものようにひとりでバスを利用して帰ってくることが可能です。荷物を持ち帰ることが大変であるなら,それは作業所のロッカーに保管しておくことが可能ですから,次にたとえば母が妹を作業所まで送っていったときに,受け取って持ち帰ればそれで問題は生じません。しかしショートステイ先の施設からでは,妹はひとりで帰るということは困難です。よって,これまでと同様に2泊3日でこのショートステイのサービスを利用するということになると,24日にはだれかが,というのは事実上は母か僕がということになりますが,この施設まで妹を迎えにいかなければならないということになります。もちろんそれは別に不可能なことではありませんが,それはそれで大変であろうという作業所の方の配慮もありまして,今回のショートステイは3泊4日とし,24日の月曜の作業の終了後に,いつものように作業所の方が妹を送ってくれるということになりました。
 週末ですが,とくに外出したというわけではなかったようで,土日とも終日を施設の中で過ごしたそうです。この施設の中では卓球ができたようで,妹はそれで遊んだと言っていました。
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