スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

イワンの場合&途中退席

2012-06-02 18:54:13 | 歌・小説
 スメルジャコフの場合には,理解しにくい形でキリスト教の影響が潜んでいるのですが,全体としていえば『カラマーゾフの兄弟』は,ドストエフスキーの小説の中でもキリスト教色が濃いものであると僕は思います。ここではイワンの場合を考えてみます。
                         
 イワンが無神論者であるか否かを二者択一で答えよと問われれば,僕は無神論者であると答えます。イワンが書いた「大審問官」のラストシーンをどう解釈するべきかは微妙なところですが,僕はイワンは神の不在を確信している,少なくとも神の実在に疑問を抱いていると思います。
 イワンがそう考える理由は,悲惨な,あるいは不幸な子どもが現実的に実在しているからです。もしも神が本当に存在するならば,子どもがそのような立場に置かれる筈はないというのがイワンの考え方。しかし現実にそういう子どもがいる。よって神は本当は存在していないのではないかというのが,イワンの基本的な論理構成になっていると僕は理解します。
 しかし一方で,イワンの精神のうちには,神の実在を渇望するような欲望が強くあると僕は感じます。アリョーシャは神の実在を信じてやみませんから,それと比較するのは妥当ではないかもしれませんが,神の実在を望む気持ちは,僕はむしろイワンの方がアリョーシャよりも強いくらいだと思います。『カラマーゾフの兄弟』の中で,僕の心に最も焼き付いている一節は,すでに紹介したイワンがアリョーシャに語る平和のイメージですが,こうしたことばがイワンの口をつくのは,確かにイワンが神の実在を渇望しているからだと僕には思えます。
 このイワンの逡巡は,実はドストエフスキー自身にも妥当するのではないかと僕は考えています。つまりドストエフスキー自身が,神の実在を渇望しつつ,神の実在に拭うことができない疑問を抱いていたのではないかと思うのです。
 確かにイワンは無神論者ではあるでしょう。しかしイワンは,ニヒルな無神論者ではなく,むしろ神の存在を熱望してやまない無神論者として描かれていると僕には思えます。そして神を渇望する無神論者とは,ドストエフスキー自身のことではなかったかと思うのです。

 納骨などの法事のときには喪服を着用します。汁物というのはどうしても跳ねてしまいますから,このとき叔父が昼食の場としてちゃんこ鍋屋を選択したこと自体は,あまりよくなかったのではないかという気がします。
 僕はこの場には最後までいませんで,途中で退席しました。これは事前に,もしも可能ならばそうしたいとに打診していたもの。というのも,僕はこの日はできれば長者町に出掛けておきたい用事があったからです。
 このちゃんこ鍋屋から大和駅までは歩いていくことができました。そこで午後1時10分過ぎにはひとりだけ先に店を出て,相鉄線で横浜へ。横浜から家へは根岸線に乗るか,そうでなければバスということになります。しかし僕が事前に想定していたよりかなり早くに店を出ることができましたので,このときは京浜急行に乗り換えて日ノ出町へ。そしてWINS横浜に寄って馬券を購入してから戻りました。この日は馬券は買うことができないだろうと思っていたので,これはこれでよかったのですが,むしろ損をしてしまいましたので,本当によかったといえるのかどうかは微妙なところです。この日の東京競馬のメーンは白富士ステークスで,明日の安田記念に出走するペルーサが断然の人気になって2着に負けたレース。僕が帰宅したのは午後3時過ぎでしたので,テレビでこのレースは観戦することができました。そして外出する用意をしている間に母と妹が帰宅。僕が再び長者町へと外出したのは午後4時過ぎでした。
 実はWINS横浜と長者町というのはすぐ近く。WINS横浜からすぐの日ノ出町の交差点から大岡川を渡ってしまえばそこは長者町です。もっとも,そこは長者町9丁目で,僕が行かなければならなかった長者町3丁目とはバス停でふたつかみっつ分の距離はありますが,歩けないわけではありません。事実,馬券を買った帰りにそこへ寄っていくということはそれまでにも,そして今でもよくあることなのです。したがって本当は馬券を買ってから一旦は帰宅するというのはあまり合理的ではなかったのです。ただ,この日は馬券を買ったときはまだ喪服のままで,そのままそちらに行くというのはあまり好ましくありませんでしたので,わざわざ手間になるようなことをしたのです。
コメント
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