スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&迂回の理由

2012-02-06 18:16:00 | 将棋
 今冬は大雪に見舞われている日本海側。第37期棋王戦五番勝負は昨日,新潟市で第一局を迎えました。対戦成績は久保利明棋王が16勝,郷田真隆九段が15勝。
 振駒で郷田九段が先手となり,久保棋王のごきげん中飛車③▲4八銀からお互いの銀が4筋で見合う形の持久戦。相穴熊がよくある戦型ですが,この将棋は後手の穴熊に対して先手は左美濃に構えました。
                         
 ここで後手は△6二飛と寄りました。銀冠への組み換えを目指す▲8六歩に△5ニ金と引き締め,▲8七銀と上がったところで△6五歩。▲同歩△同飛に▲7八金で組み替えは完了。△6一飛と下段まで引いたところで▲6六歩と受けました。
                         
 後手としては穴熊に組んで自分だけ歩を手持ちにしましたから満足できる局面ではないかと思います。もちろん勝負に直結するような差がついているわけではありませんが,後手がポイントを稼いだのは事実なのではないでしょうか。この後,後手はさらに着実にポイントを加算。先手の方からは強力には反撃できないような一局に。寄せの段階では若干のもたつきがあったのかもしれませんが,全体としてみれば,後手の完勝といっていい内容ではなかったかという印象です。
 久保棋王の先勝。第二局は25日です。

 第二部定理九は,十全な観念と混乱した観念のどちらの場合にも妥当します。いい換えれば,スピノザの哲学では観念の内的特徴に注目する限り,あらゆる観念は十全な観念と混乱した観念のどちらかに分節することが可能なのですから,すべての個物の観念に対して,第二部定理九は妥当であるということになります。
 するとこの限りでは,ある個物の観念が別の個物の観念に対して十全な原因となっている場合でも部分的原因にすぎない場合でも,第二部定理九のうちには含まれているということが帰結すると僕は考えます。なぜなら,まず精神の思惟作用というものは,能動と受動のどちらかに分節されます。すなわち何がしかの精神がある思惟作用を果たすならば,それはその精神の能動であるか受動であるかのどちらかなのであって,そのどちらでもないということはありません。これは前回の考察の中でも詳しく示した通りです。ところで,第三部定理一が示しているところによれば,精神は十全な観念を有する限りでは能動的ですし,混乱した観念を有する限りでは受動的です。よってこのことからまず,第二部定理九が精神の能動の場合にも精神の受動の場合にも成立しなければならない,あるいは単に成立しているということが判明します。次に,第三部定義二によれば,精神の能動というのはその精神が十全な原因となっている思惟作用のことであり,精神の受動というのは,その精神が部分的原因にすぎない場合の思惟作用のことです。このゆえに,第二部定理九というのは,こうした個物の観念から別の個物の観念へと移行する思惟作用というのが,この思惟作用をなす精神が十全な原因である場合にも妥当するし,逆に部分的原因である場合にも妥当すると僕は考えるのです。
 この結論から僕が推測するのは,おそらくスピノザの第二部定理九系証明が,僕のいう因果論的迂回を含んでいる理由というのは,実はその因果関係の原因について,それが十全な原因であるか部分的原因であるかということを示すためではなかったのであろうということです。いい換えれば,この因果論的迂回の理由というのは,もっと別のところにあったのだろうということです。
コメント
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