スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&精神と知性

2012-02-25 18:48:54 | 将棋
 北陸地方を西進,金沢市での対局となった第37期棋王戦五番勝負第二局。
 先手は久保利明棋王。郷田真隆九段の2手目が△3四歩でしたので三間飛車に。後手が最も激しくなる戦いを挑んだのですが,対する先手の指し方には度肝を抜かれました。
                         
 ここで▲7四歩と仕掛けるのはない手ではないと思いますから驚きません。△同歩は当然。そこで▲5五角と飛車銀両取りに打ちました。△7三銀はこの一手でしょう。そこで▲7四飛。1回7六に飛車を浮いていますので,厳密には少し損かもしれませんが,歩を取り返すという意味ではこれも普通の手かと思います。そこで△6四銀と出た手も,このまま7三を放置はできないので自然に感じられます。しかし次の▲8四飛には驚きました。こんな序盤早々から飛車をただで捨てる手があるとは思いませんでした。△同飛は当然。▲2二角成で銀を取り返して馬を作りました。
                         
 先手からこう進めたわけですから,これでもやれるとみていたのでしょう。ただ,実戦の進行からみるとどうも無理筋であったように思えます。この後,意表の自陣飛車を打った後手が快勝しています。
 郷田九段が勝って1勝1敗のタイに。最近は久保棋王相手にはやや苦戦傾向にあると感じていましたので,大きな1勝ではないでしょうか。第三局は来月4日です。

 人間の精神という限定を少しだけ離れ,もっと一般的な意味で,あるものが観念であるということ,なかんずくそれが単純な観念ではなく,複数の個物の観念によって組織されているような観念であるということと,そうした観念がある事物を認識するということとの間に,どのような相違があると僕が考えているのかということを,ここでもっと具体的に示しておくことにします。これがクリアーにならないと,第一の課題を本質的な意味において解決する糸口まで辿りつくことができないからです。
 まず最初に,スピノザの哲学において,複数の個物の観念が,第二部定義七で示されているような意味で協同してひとつの個体を組織するとき,そのように組織されたひとつの個物の観念は,知性といわれます。スピノザ自身は『エチカ』においては,知性というのは個々の観念の総体であるというようないい方をしますが,スピノザの哲学における一般性と特殊性の考え方からすれば,知性とは個々の観念であると説明するよりも,個々の観念の総体のことを知性と名指すという方が,より適した説明の仕方であるということは,すでに別の考察の中で示した僕の考え方です。したがって第二部定理一一というのは,人間の精神がひとつの知性であるという意味を同時に含んでいることになります。
 このとき,精神といったり知性といったりするのは,本当はややこしいのですが,この使い分けには理由がないわけではないと僕は考えています。その理由はふたつあって,ひとつは知性というのが観念の総体であるという点です。すなわち観念というのは思惟の様態ですが,思惟の様態というのは観念だけではありません。したがってそれがたとえばある人間を構成する観念の総体を意味するときには人間の知性といい,さらにそれ以上の,意志とか感情とかいった思惟の様態も含む場合には,その人間の精神ということになります。
 もうひとつは,知性も精神も思惟の様態ですが,神のうちにある観念の対象ideatumは,神の知性の外に形相的に実在し,その対象と観念が合一しています。とくにこの合一を眼中に入れた場合には,それはその知性とはいわれずに,その精神といわれることになります。
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