スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ユニバーサル杯女流名人位戦&神のうちの観念

2012-02-07 18:28:46 | 将棋
 1勝1敗で重要なポイントとなった一昨日の第38期女流名人位戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で三間飛車石田流。これに対して清水市代女流六段が抑え込みを目指す,両者の対戦ではよくある戦型。清水六段は一局ごとに少しずつ形を変える工夫をする棋士。個人的には藤井猛九段や佐藤康光九段に相通ずるものがあるという印象を抱いています。ただ本局に関してはその工夫があまりうまくいかなかったようで,中盤の戦いに入ってすぐの段階で,やや苦戦といった状況に陥ってしまったように感じます。
                         
 ここで△1五歩と突いていったのは,苦戦を意識して,少しでも手広く戦おうという意図であったと思います。ただ結果的にはむしろ自分の首を絞めてしまうことになりました。ただそれは先手の指し方を褒めるべきなのでしょう。▲1五同歩に△6七歩と今度はこちらに必死の手作り。先手は▲6三歩成と成り捨て△同金に▲2五銀。一旦△3五角と出て,▲3六歩と突かせてから△1三角。▲4四歩と取り込み,△同金に▲1四歩と突き,見事に端の突き捨てを逆用しました。
                         
 こうなっては後手玉だけが終盤といった局面で,先手は攻めに専念できます。後手の反撃を見切った先手が寄せきって勝ちました。
 里見女流名人が防衛に王手。第四局は来週の水曜です。

 第二部定理九の因果関係に十全な原因の場合と部分的原因の場合のいずれもが含まれているということ,いい方を換えれば,第二部定理九は個物の十全な観念の場合に妥当するのはもちろん,混乱した観念の場合にも同じように妥当しなければならないということは,僕が第二部定理九系が,第二部定理九からの必然的帰結とはいえないのではないかと考える理由のひとつを構成します。なぜなら,もしも第二部定理九がそのようなものであるのだとしたら,第二部定理九系もまた,十全な観念と混乱した観念とを同時に含むような言及でなければならないと僕は考えますが,第二部定理九系は明らかにそうはなっていないと理解できるからです。
 第二部定理九系が示しているのは,観念の対象ideatumの中に起こることの観念が,対象の観念を有する限りで神のうちにあるということです。第二部定理七系の意味は,神のうちにある観念はそのすべてが十全な観念であるということです。もちろんそのときには,神をどのように理解するのかということは欠かせません。たとえば神が絶対に無限である限りにおいて十全な観念であるという場合もあれば,ある個物の観念に変状した限りでの神のうちに十全な観念があるという場合もあります。また,ある個物Aとそれとは別の個物Bのふたつの個物の観念を有する限りで十全な観念であるという場合もあるでしょう。このように,神がどのような様式でみられる限りにおいてその観念が十全であるのかというパターンは,無際限にあります。しかし,ある観念が神のうちにあるとスピノザが記述する場合には,その観念が必ず十全な観念であるということは,第二部定理七系の意味によって同一なのです。
 したがって第二部定理九系は,対象の中に起こることの観念が,対象の観念を有する限りでの神と関係づけられて説明されていますから,ある十全な観念についての記述であるとみなされなければなりません。いい換えればそこには,混乱した観念が入り込むような余地はないのです。よって僕はこの観点からも,第二部定理九から第二部定理九系が帰結するという考え方には疑問を呈さざるをえません。
コメント
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