スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

キリスト教とスピノザ主義&論理的な帰結

2006-07-08 22:29:05 | 哲学
 遅くなりましたが先月29日の僕のコメントの補足,いかなる点でキリスト教とスピノザ主義が相容れないかを簡単に説明します。キリスト教というのは,イエスという人間を救世主と認めることによって成立します。救世主は神とは異なるのですが,神の子とされますので,イエスの本性には,人間の本性とともに,何らかの意味で神の本性が含まれます。あるいはそういった仕方で4つの福音書を理解するのが,キリスト教的な考え方だといえるでしょう。一方エチカ第二部定理一〇によれば「人間の本質には実体の有は属さない。あるいは実体は人間の形相を構成しない」のです。つまり,人間の本性に実体の本性が属することはないのですが,存在する実体は神だけ(第一部定理一四)なので,要するにたとえイエスといえども,ひとりの人間である以上,その本性に神の本性が含まれることはないのです。この点において,キリスト教とスピノザ主義の間には,大きな溝が生じていて,僕自身は,それは橋を架けることができないほどの大きな溝だと感じています。
 明日から松阪記念が開幕します。日曜~水曜の開催は珍しいです。

 すべてのものが精神を有しているとはいえ,現実的にすべてのものが認識をなし得るというわけではありません。しかし,第二部公理三によれば,思惟の様態のうち第一のものは観念であって,ある精神がある観念を有するとは,その精神がそのある観念の対象を認識するということにほかならないのですから,少なくとも論理的な帰結としては,すべてのものが精神を有するということが,すべてのものが認識をなし得るということと同等の意味をもつと考えてもそうも不思議ではありません。とくにここで問題にしている公理五は,現実的な公理ではなく論理的な公理と考えても十分に成立しますし,ほかの部分に影響を及ぼすというものでもありません。さらにいえば,ここで問題としている内容は,公理五の一部にのみ関係しているのです。したがって僕は,少なくとも論理の上では,スピノザはすべてのものが認識という行為自体はなし得ると考えていて,そしてそう考えることそのものは完全に正当で,その上での公理五の言明であると考えることにして,さらに進めていくことにします。
コメント
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