スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザ主義とスピノザの教え&十全な原因と精神

2006-07-31 22:31:41 | 哲学
 スピノザ主義では能動的であることが肯定され,受動的(反動的)であることが否定されるので,キリスト教に限らず,あらゆる宗教とスピノザ主義には相容れない部分があるわけです。しかしこのことは同時に,ひとりの人間がスピノザ主義者としてあろうとするそのあり方にもはね返ってくるのです。つまり,たとえばもしもエチカでスピノザがいっていることを頑なに守ろうとするなら,これは反動的であるといえるわけですから,ある意味で,スピノザ主義とはほど遠い立場であるということになるのです。もちろんそれは,反動的な立場としてはよりましな立場とはいえるでしょう。しかしそれは,スピノザ主義者であろうとする者が目指すところではないような気が僕にはするのです。スピノザ主義者であること,あるいはスピノザ主義者になるということは,僕の目標のひとつなのですが,それは途方もない目標であるように感じられて仕方がありません。
 明日は福井記念の決勝ですので予想します。並びは森田ー山崎ー有坂の北日本,松岡ー市田の近畿に高木,吉田ー合志という西の混成ラインに坂本で3分戦。北日本と近畿がそれぞれ二段駆け態勢で,激しく先行争いをしそうなのであえて吉田選手◎を狙います。この場合は合志選手が相手。もちろん山崎選手○や市田選手▲が勝つ展開も大いに考えられ,それぞれ有坂選手と高木選手△が相手となり,高木選手の方が逆転する可能性は僅かながら高いとみます。

 十全な原因および部分的原因と人間の精神の関係は次のようになります。もしも人間の精神が十全な原因となってその人間の精神のうちにある観念が生じるなら,この観念はその人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちにあることになりますから,これは十全な観念です。一方,人間の精神が部分的原因となってある観念がその人間の精神のうちに生じる場合には,この観念はその人間の精神の本性を構成するとともに,さらにほかのもの(ほかの部分的原因)の観念を有する限りで神のうちにあることになるので,これは混乱した観念であるということになるのです。つまり,人間が十全な観念を有するためには,自分の精神の本性によって完全に説明できるような観念を形成しなければならないのです。
 最後は関係のない方向に進みましたが,とりあえず第一部公理五はこれで終りにして,明日から簡単にまとめます。観念論に関してはこのまとめから除外しますが,またいずれ立ち返る機会があるものと思います。とりあえず,観念とはその対象を撮影した写真のようなものではないということだけは,常に理解しておく必要があると思います。
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