ローズカップは4車で結束した中部ラインが残り2周からかまして先行。金子選手のダッシュに小嶋選手が離れ,前の武田選手が番手に入れそうな絶好の展開になったのですが,内を開けたので小嶋選手以下の中部勢にもぐりこまれ結局5番手に。残り1周から小嶋選手が金子選手を捨てて早くもスパート。これでは後続の選手たちは成す術のあるはずもなく,小嶋選手の後ろを回った加藤選手が1着,小嶋選手が2着に粘り,3着も山口幸二選手で,中部の上位独占となりました。
僕の推測ですが,武田選手は金子選手の番手で粘ることを作戦のひとつと考えていて,当然,金子選手のかましに小嶋選手が外から追走してくるものと思ったので,インを開けてしまったのではないかと思います。武田選手ではなく,中部ラインに運のあったレースとなりました。
人間の身体が人間の精神を認識しないということについても,僕は実は疑問を感じてしまうのです。
もちろん何かを認識するのは我々の精神であって,我々の身体ではありませんから,その限りではこれは正しいといえなくもないのですが,認識するのが精神であって身体でないのは,精神が思惟の様態であるからです。つまり,認識作用というのは思惟作用ですから,思惟の属性に属するものだけ(思惟属性そのものか思惟の様態)がなし得るのです。したがって,認識するという動詞の主語であり得るのは,思惟の属性に属するものだけであって,それ以外のものが主語になる言明は,誤っているとか正しいとかいう前の問題として,単に不条理であるか,少なくともナンセンスな言明だと思うのです。
これが,僕が第一部公理五のうちにあると考える,もうひとつの問題です。
僕の推測ですが,武田選手は金子選手の番手で粘ることを作戦のひとつと考えていて,当然,金子選手のかましに小嶋選手が外から追走してくるものと思ったので,インを開けてしまったのではないかと思います。武田選手ではなく,中部ラインに運のあったレースとなりました。
人間の身体が人間の精神を認識しないということについても,僕は実は疑問を感じてしまうのです。
もちろん何かを認識するのは我々の精神であって,我々の身体ではありませんから,その限りではこれは正しいといえなくもないのですが,認識するのが精神であって身体でないのは,精神が思惟の様態であるからです。つまり,認識作用というのは思惟作用ですから,思惟の属性に属するものだけ(思惟属性そのものか思惟の様態)がなし得るのです。したがって,認識するという動詞の主語であり得るのは,思惟の属性に属するものだけであって,それ以外のものが主語になる言明は,誤っているとか正しいとかいう前の問題として,単に不条理であるか,少なくともナンセンスな言明だと思うのです。
これが,僕が第一部公理五のうちにあると考える,もうひとつの問題です。