京王閣競輪場で争われた昨晩の大阪・関西万博協賛名輪会カップの決勝。並びは鈴木‐河村の東京,窓場-松岡の近畿,河端‐久保田‐田尾‐室井の中四国で大坪は単騎。
鈴木と窓場がスタートを取りにいき,内の鈴木が誘導の後ろに入って前受け。3番手に窓場,5番手に大坪,6番手に河端で周回。残り3周のホームの入口から河端が上昇開始。それに合わせて窓場も動き,まず窓場が鈴木を叩きました。河端はバックに入ってから外を進出。窓場を叩きましたが,その間に鈴木がインを進出。室井が追走を阻まれ,4番手に鈴木,6番手に室井,7番手に窓場,最後尾に大坪という一列棒状になって打鐘からホームへ。バックに入って窓場が捲りにいきましたが,これを鈴木が阻止して直線に。番手から久保田が踏み込みましたが久保田マークの田尾がその外をさらに伸びて優勝。久保田が4分の3車輪差で2着。窓場を阻止した鈴木は返す刀で外から踏んでいきましたが届かず半車身差で3着。
優勝した高知の田尾駿介選手はGⅢ初優勝。というかS級ではこれが初優勝でした。このレースは4人のラインができた河端が先行。鈴木が河端よりも窓場を意識したようなレースになったために,捲りが来ませんでした。ただ河端はどちらかといえばスプリンターで,捲りが届かなかったのはそのためでもありますが,駆けたタイミングからゴールまでは保ちませんでした。このために番手の久保田よりも3番手の田尾の方が有利になったということだったのではないでしょうか。
それでは『スピノザーナ11号』の中から,僕の関心を惹いた部分,僕が気になった部分,あるいは僕にとって有益であった部分について,それぞれ紹介し,それについて僕自身の考察も加えていきます。
「畠中尚志『エチカ』の訳業」の中で,第二部定理八備考について触れられています。これは個物res singularisの形相的本性essentia formalisと現実的本性actualis essentiaの関係を,円の内部でふたつの直線が交わる点で分割される線分によって形成される矩形の面積が,相互に等しくなる例によって説明している部分です。ただしここでは,この説明によってスピノザが主に何を意味しようとしているのかということはあまり関係ありません。むしろこの説明の背景にあるものが何であるのかということについて河井は敷衍しています。
『エチカ』の岩波文庫版では,この説明の部分に図が掲載されています。ここではふたつの線分がDとEで表されています。この表記はスピノザが備考Scholiumで示している表記に準じたものですから,とくに意味があるわけではありません。スピノザの説明では,もし円の中にEとDの線分によって形成される矩形だけが現実的に存在すると仮定するなら,この矩形の観念ideaも円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく,それらの矩形の現実的な存在existentiaを含む限りでも存在するようになり,そのように現実的に存在するようになることによって,ほかの矩形の観念と区別されるようになるというようになっています。つまりここではスピノザは,単に個物の観念の現実的存在について語っているわけでなく,個物の観念がほかの個物の観念と様態的にmodaliter区別されるようになる条件についても語っているのです。
岩波文庫版に掲載されている図は,このふたつの線分,つまり線分Dと線分Eが,円の中で直交しています。つまり線分Dと線分Eが垂直に交わっています。しかし実際にはこれらふたつの線分は,交わればよいのであって,直交する必要はありません。円の中で交わる直線の線分によって形成される矩形の面積が等しくなるためには,それが直線であれば十分であり,直交する必要はないからです。このゆえに無限に多くのinfinita相互に等しい矩形が円内に含まれるのです。
鈴木と窓場がスタートを取りにいき,内の鈴木が誘導の後ろに入って前受け。3番手に窓場,5番手に大坪,6番手に河端で周回。残り3周のホームの入口から河端が上昇開始。それに合わせて窓場も動き,まず窓場が鈴木を叩きました。河端はバックに入ってから外を進出。窓場を叩きましたが,その間に鈴木がインを進出。室井が追走を阻まれ,4番手に鈴木,6番手に室井,7番手に窓場,最後尾に大坪という一列棒状になって打鐘からホームへ。バックに入って窓場が捲りにいきましたが,これを鈴木が阻止して直線に。番手から久保田が踏み込みましたが久保田マークの田尾がその外をさらに伸びて優勝。久保田が4分の3車輪差で2着。窓場を阻止した鈴木は返す刀で外から踏んでいきましたが届かず半車身差で3着。
優勝した高知の田尾駿介選手はGⅢ初優勝。というかS級ではこれが初優勝でした。このレースは4人のラインができた河端が先行。鈴木が河端よりも窓場を意識したようなレースになったために,捲りが来ませんでした。ただ河端はどちらかといえばスプリンターで,捲りが届かなかったのはそのためでもありますが,駆けたタイミングからゴールまでは保ちませんでした。このために番手の久保田よりも3番手の田尾の方が有利になったということだったのではないでしょうか。
それでは『スピノザーナ11号』の中から,僕の関心を惹いた部分,僕が気になった部分,あるいは僕にとって有益であった部分について,それぞれ紹介し,それについて僕自身の考察も加えていきます。
「畠中尚志『エチカ』の訳業」の中で,第二部定理八備考について触れられています。これは個物res singularisの形相的本性essentia formalisと現実的本性actualis essentiaの関係を,円の内部でふたつの直線が交わる点で分割される線分によって形成される矩形の面積が,相互に等しくなる例によって説明している部分です。ただしここでは,この説明によってスピノザが主に何を意味しようとしているのかということはあまり関係ありません。むしろこの説明の背景にあるものが何であるのかということについて河井は敷衍しています。
『エチカ』の岩波文庫版では,この説明の部分に図が掲載されています。ここではふたつの線分がDとEで表されています。この表記はスピノザが備考Scholiumで示している表記に準じたものですから,とくに意味があるわけではありません。スピノザの説明では,もし円の中にEとDの線分によって形成される矩形だけが現実的に存在すると仮定するなら,この矩形の観念ideaも円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく,それらの矩形の現実的な存在existentiaを含む限りでも存在するようになり,そのように現実的に存在するようになることによって,ほかの矩形の観念と区別されるようになるというようになっています。つまりここではスピノザは,単に個物の観念の現実的存在について語っているわけでなく,個物の観念がほかの個物の観念と様態的にmodaliter区別されるようになる条件についても語っているのです。
岩波文庫版に掲載されている図は,このふたつの線分,つまり線分Dと線分Eが,円の中で直交しています。つまり線分Dと線分Eが垂直に交わっています。しかし実際にはこれらふたつの線分は,交わればよいのであって,直交する必要はありません。円の中で交わる直線の線分によって形成される矩形の面積が等しくなるためには,それが直線であれば十分であり,直交する必要はないからです。このゆえに無限に多くのinfinita相互に等しい矩形が円内に含まれるのです。