スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-6&疑問点

2023-08-29 19:29:40 | ポカと妙手etc
 ⑲-5の第2図で,先手は合駒をするか逃げるかの二者択一です。まずは合駒をする方からみていきましょう。☗5九桂です。
                                        
 これに対しては後手から☖5九同角成と取ってしまう手があります。先手は☗同金の一手ですがさらに☖5八銀と打ちます。これも☗同玉の一手ですが☖4七歩成☗6八玉☖5九飛成です。
                                        
 第2図まで進めば分かるように先手玉は詰みです。つまり第1図のように合駒をしてしまうと,先手玉が詰んでしまい,後手の勝ちなのです。よって後手は合駒をするのではなく,玉を逃げるほかありません。

 第二部定理三二証明平行論の定理Propositioの系Corollariumを前提にしているということ,そしてそのゆえに第一部公理四に遡ることができるという河井の主張は,僕も同意することができます。しかしその後で,個々の混乱した観念idea inadaequataも,遡れば起成原因causa efficiensとしての神の観念idea Deiまで行きつくと河井がいうとき,僕は疑問に感じます。これはスピノザの哲学にそぐわない解釈と考えるからです。
 河井は,ある混乱した観念を抽出して,遡ることによって神の観念に行きつくといっていますが,これは第一部公理四を前提としているので,結果effectusから原因へと遡っていくことを意味していることになります。一方,そのように結果から原因へと遡っていくことができるのであれば,そうした観念は個物res singularisの観念であると解する必要が出てきます。ところが,第二部定理九がいっているのは,個物の観念をひとつ抽出して,それを結果としてみたときにその原因へと辿っていくなら,この結果と原因の関係が無限に連鎖していくということです。いい換えればそれは,神の観念に辿り着くということはないという意味です。したがって,河井のいっていることはスピノザの哲学では成立しないと僕は考えます。
 さらに河井は,神の観念から出発すれば,十全な観念に立ち戻ることができるといっていますが,これも僕は疑問に感じます。ここで立ち戻るというのは,遡るとは反対の意味で立ち戻るといっているのでしょう。つまり河井は,混乱した観念も結果としてみれば,原因,その原因といった具合に第一原因causa primaとしての神の観念に遡ることができて,そして今度は神の観念を第一原因としてみることで,その結果さらにその結果と立ち戻り,十全な観念に至るといっていると僕は解します。このとき,遡るということだけでなく,立ち戻るという部分も,スピノザの哲学にそぐわない解釈だと僕は考えるのです。
 もしこのような仕方で十全な観念に立ち戻るのであれば,この十全な観念に対して神は遠隔原因causa remotaであるといわなければならず,最近原因causa proximaであるとはいえなくなります。ところが第一部定理二八備考でスピノザはそれを否定しています。この観念に対して,神は絶対的な最近原因でなければなりません。
コメント
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