スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

認識の裁量&知識のストック

2021-08-28 19:11:29 | 哲学
 僕が人間には自ら放棄したり他者に譲渡することができない思想の自由と良心の自由があるというとき,おそらく次のような疑問を持つ人がいるのではないかと思います。
                                   
 僕は第二部定理一七の様式で人間の精神mens humanaが外部の物体corpusを現実的に存在すると知覚するpercipereとき,それはその人間の精神の思想の自由libertasあるいは良心の自由に該当し,かつそれを放棄したり譲渡したりすることはできないといいました。人間が現実的に存在する限り,その人間の身体humanum corpusが外部の物体の本性naturaを含む仕方で刺激を受けないということは不可能であり,いい換えれば現実的に存在する人間は必ず外部の物体の本性を含む仕方での刺激を受けるafficiのであって,この様式である人間の身体が刺激を受けると,その人間の精神は必ずその物体が現実的に存在すると知覚するからです。しかし,もしもそれが必ず知覚されるような認識cognitioであれば,それを自由という観点から言及することはできないという考え方があり得ます。なのでこの種の疑問が生じる余地があることは僕は認めます。
 この点に関しては,そもそも僕がこの自由というのを,哲学的な概念notioとして解しているということが,一定の解答とはなるでしょう。ただ,このような疑問をもたれる方は,もし人間に思想の自由なり良心の自由というものがあるとすれば,それはある事柄を認識するcognoscereか認識しないのかということが,それを認識する人間の精神の裁量に属する場合についていわれ得るのであって,もしある事柄がそのような裁量とは関係なく,必然的にnecessario認識される場合には,その事柄は思想の自由や良心の自由の範疇には含まれないというような考え方をしている場合があるので,その点については反論しておきたいのです。
 何を認識し何を認識しないのかということについて,人間の精神が裁量することができるのであるとすれば,それはその人間の精神には自由意志voluntas liberaがあるということを意味しています。意志作用volitioとは観念ideaが観念である限りにおいて含む肯定affirmatioないしは否定negatioを意味するのであって,認識するとかしないということは肯定と否定にほかならないからです。僕はこのような意味での自由意志が人間の精神にあるということを認めません。

 近藤の学習方法の中で,解説を読むというとき,それは単に文章を読むということを意味しているわけではなく,書かれている内容を理解するということを意味しています。そして解説は第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて記述されています。つまりこの作業がスピノザの哲学の文脈で意味していることは,数学のある分野のある特定の問題について,その解答の導き方を,近藤が第二種の認識で理解するということです。そして近藤は同じ作業を,同じ分野のほかの問題についても行い,この作業を何度も何度も繰り返していくわけです。したがって,この訓練を継続しているうちに,近藤の知性intellectusのうちには,ある分野の問題の解答を導くための第二種の認識が蓄積されていくことになります。近藤自身はこのことを,知識のストックといういい方をしています。つまり近藤が自著で知識のストックというとき,それはスピノザの哲学では,第二種の認識の蓄積を意味するのです。
 近藤はこの学習方法を続けているうちに,その分野の問題の解答を,問題を一瞥しただけで導き出せるようになったのです。これもスピノザの哲学の文脈で説明するなら,近藤はその分野の問題を第三種の認識cognitio tertii generisで答えられるようになったということです。一瞥して答えを導き出せるというのは,第二種の認識に頼らずに答えを導き出せるということを意味します。スピノザの哲学では認識は三種類に分類されますが,正解を導き出せるのは第二種の認識と第三種の認識だけであって,第二種の認識に依拠しないのであれば,それは第三種の認識にほかならないからです。実際に第三種の認識は直観scientia intuitivaといわれるのであり,それは問題を一瞥しただけで答えを出せるというあり方に当て嵌まります。
 したがって近藤の知性のうちで何が生じていたのかといえば,ある特定の分野で第二種の認識が蓄積されることによって,その分野に関して第三種の認識が働くagereようになったということなのです。そしてこうしたことが実際に生じ得るということは,第五部定理二八から論証することができると僕は考えます。この定理Propositioは,文字通りに解すれば,第三種の認識に向う欲望cupiditasが,第二種の認識から生じるということになります。
コメント
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