スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

幕臣と維新の志士&前金

2021-08-12 19:15:24 | 歌・小説
 幼少期の漱石は,武士の家臣というものがどのような態度をとるべきなのかということに,強い思いをもっていたと考えられます。そうでなければ先祖が武田家を裏切る形で徳川家の家臣になったことに,篠本が伝えているような恥辱を感じるとは思えないからです。つまりこの当時の漱石は,家臣は主君に忠誠を尽くすべきだと思っていたであろうことが容易に推定できます。
                                        
 夏目家は,武田家を裏切る形で徳川家の家臣となったわけですが,徳川家康が江戸幕府を開幕したことにより,幕臣となっていました。したがって漱石は,幕臣は徳川家にあるいは徳川幕府に忠誠を尽くすべきだという思いをもっていた可能性が少なからずあったように僕には思えます。しかし明治維新によって,徳川幕府は終焉を迎えました。そして時はまさにその明治維新の直後だったのです。このことから,漱石は明治維新の志士たちに対しては,もしかしたらあまりよい感情を抱いていなかったかもしれません。明治維新の志士というのは,本来なら忠誠を尽くすべき徳川家に対して反旗を翻し,幕府を打倒した人びとのように,幕臣という立場からはみることができるからです。そして逆に,徳川家に忠誠を尽くすために最後まで戦おうとした人びと,たとえば会津の白虎隊や,函館で新政府軍と戦った榎本武揚などに対しては,好感をもっていたという可能性があります。
 こうしたことは,漱石が武士の家臣がどのようにあるべきかということをどのようにみていたのかということだけから結論することができるわけではありません。それと同時に,夏目家が幕臣であったということ,つまり徳川家の家臣であったということについて,漱石自身がある種のアイデンティティーをもっていたのでなければ,徳川家を守ろうとした人に対しての好感と,それを倒した人に対する反撥というのはおそらく出てこないであろうからです。しかしその点については篠本は何も書いていませんから,これはあくまでも可能性という範疇の事柄です。ですが漱石の小説に,こうした思いが表出されていると読解することができるようなものが,あるにはあるのです。

 2月9日,火曜日。午後8時にピアノの先生から電話がありました。1月は緊急事態宣言に伴う移動の制限があったため,ピアノのレッスンをすることができませんでした。次のレッスンをいつ行うのかということは,レッスンの終了後に決定します。なので2月のレッスンをいつ行うのかということは未決定でした。この電話で2月のレッスンの日時を決定したのです。2月は移動の制限は解除されることになっていましたので,日時を決定するのに苦労はありませんでした。
 2月10日,水曜日。5日に受け取った請求書のうち,工事の前金についてはこの日に振り込みました。前金は40万円です。午後2時に業者から連絡があり,翌日から工事を開始するとの連絡を受けました。
 2月11日,木曜日。午前8時40分に作業員が訪問してきました。挨拶を交わしてから工事が始まりました。作業員はふたりでしたが,ふたりだったのは工期の前半だけで,後半はひとりだけになりました。これは工事内容の関係からだったと思われます。この日の工事は午後4時半に終了しました。作業が開始になるのは概ね同じでしたが,終了は日によって異なり,この日のように午後4時半ごろになることもありましたし,3時ごろには終了という日もありました。
 2月12日,金曜日。妹を迎えに行きました。この日はグループホームで待機となっていましたので,迎えに行ったのはグループホームです。僕の家は妹を除けば僕がひとりで暮らしています。したがって留守にするときに工事をしていれば,作業員に声を掛けます。この日はその事情を説明するのに手間取ってしまったこともあり,最寄りのバス停から乗るいつものバスに乗り遅れてしまいました。なのでその直後の磯子行きのバスに乗り,途中で上大岡行きに乗り換えることになりました。このパターンで上大岡に行ったのは,妹がグループホームに入所して少しした後,妹を送っていったとき以来のことになります。地域支援担当主任に依頼されていた受給者証はこのときに持参し,グループホームの職員に渡しました。帰りはO眼科に寄って処方箋をもらい,薬局で目薬を受け取ってから帰りました。
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