スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯清麗戦&蜘蛛の巣の美

2020-08-01 19:16:58 | 将棋
 昨日の第2期清麗戦五番勝負第三局。
 里見香奈清麗の先手でノーマル三間飛車。後手の上田初美女流四段は居飛車穴熊に。
                                        
 後手が☖3五歩と突いたのを狙って先手が角を引いたところ。後手は☖4四歩と突いて☗5六銀と追い返しました。先手が銀を出たときにはまだ5筋の歩が突かれていなかったので,歩の下に銀を引くのならさほど不満はないように思えます。
 後手が☖5一銀と引いたところで☗6五銀と反対側に出たのですが,この構想がいまひとつだったのではないでしょうか。☖5二銀と立て直したのに対して☗5四歩と突き☖4三金に☗5三歩成と取って☖同銀に☗7五歩と突きました。後手は☖6四歩と突いて☗5六銀と再び引かせ,☖2四角と出て歩を守りました。
                                        
 第1図から第2図までの進展で,後手も銀の動きで損をしていますが,先手がより多く手損をしているのが響き,はっきりと局面が悪くなってしまったように思います。この将棋は途中で玉形の差から後手必勝のような将棋になった後,意外なほどに時間が掛かったのですが,リードを生かした後手が押し切っています。
 上田四段が勝って1勝2敗、第四局は6日に指される予定です。

 『エチカ』を蜘蛛の巣に喩えることに一定の妥当性があるということと,僕が『エチカ』に美しさを感じるということの間に,大きな関係があります。僕が感じている『エチカ』の美しさというのは,いってみれば蜘蛛の巣の美しさなのです。
 生物としての蜘蛛は,必ずしも人間から好まれるとはいえないでしょう。ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはそういう点も見越して,スピノザの哲学における神Deus,本性naturaの必然性necessitasによって働くagere神のことを蜘蛛に喩えたのだと思われます。また,蜘蛛の巣に引っ掛かった経験があるという方はいらっしゃるのではないかと思います。僕自身もそうした経験が何度かあります。それは感触としていえば気持ちのいいものではありません。そういう意味でいえば,蜘蛛の巣のことが好きだという人も,おそらく少数派であろうと思います。ニーチェがスピノザの相の下に神が自ら蜘蛛となって巣を張るようになったというときにも,そうしたことがおそらく意識されていたのではないかと思います。
 ただしこれは,物体corpusとしての蜘蛛の巣のことであって,もしも単に蜘蛛の巣を形状としてみるならば,その形状に美を感じる人がいたとしても僕はおかしくないと思うのです。そして僕が感じる美しさ,蜘蛛の巣としての美しさというのも,その形状としての美しさなのです。あるいは模様としての美しさといってもいいかもしれません。もしも『エチカ』を図形的に象徴化すれば,それは蜘蛛の巣のような模様となるのであって,そのように象徴化される美しさというのを僕は『エチカ』に感じているというのが,僕の美的感覚の説明としては最も適切かもしれません。
 『エチカ』の原題は,幾何学的秩序に従って論証されたエチカEthica ordine geometrico demonstrata,です。この幾何学的秩序は,公理系の秩序のことを意味します。しかし僕たちは幾何学模様という語を使います。蜘蛛の巣の形状を幾何学模様ということはできないでしょうが,ある秩序づけられた模様という意味では,幾何学模様も蜘蛛の巣の模様も同じような模様であるとみることはできるでしょう。つまり,『エチカ』が幾何学的秩序に従って論証されているがゆえに,論証されたものには蜘蛛の巣の美しさがあるのかもしれません。
コメント
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