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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

函館ミリオンナイトカップ&措置の相違

2020-08-11 19:12:48 | 競輪
 昨晩の函館ミリオンナイトカップの決勝。並びは山岸-鈴木の関東,山中-松谷の南関東,椎木尾-笠松の近畿中部で阿部は単騎。
 鈴木がスタートを取って山岸の前受け。3番手に椎木尾,5番手に山中,最後尾に阿部という周回に。残り2周のホームから山中が一気に上昇していきましたが,うまく対応した山岸が突っ張ることに成功。阿部が5番手に切り替え,6番手に山中という隊列になって打鐘。ホームから再び山中が巻き返しにいきましたが,一旦は脚を使っていたこともあり,1周前ほどのスピードには欠けました。鈴木の牽制もあり,山中はバックで一杯となり松谷も共倒れ。直線は番手の鈴木が差し切って優勝。椎木尾と笠松は外にいき,内を回った阿部が山岸と鈴木の間を鋭く伸びて4分の3車身差で2着。逃げた山岸が半車身差の3着。
 優勝した新潟の鈴木庸之選手は2015年5月の松阪記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは松谷と鈴木が脚力では上位。ともに自力を出せる選手ですが番手戦ということで,予想しにくい面がありました。結果的に山岸が山中を突っ張り,山中の巻き返しが不発に終わったため,松谷にはチャンスがなくなり,鈴木が恵まれました。この開催はオールスターが直後に控えているため,トップクラスの選手は不在で,あくまでもそのレベルでの優勝だと考えておいた方がいいでしょう。

 書簡七十書簡七十二が遺稿集Opera Posthumaに掲載されなかったのは,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizがシュラーGeorg Hermann Schullerに出した指示は,単にライプニッツの書簡が遺稿集に掲載されないようにするということだけでなく,ライプニッツとスピノザとの間に交流があったことを公にしないようにするということであったからだと思われます。ライプニッツはスピノザと書簡のやり取りをしていただけでなく,スピノザを訪ねて会見したこともあったのですが,その事実について隠蔽しようとしているので,シュラーに対する指示がそのようなものであったことは不自然ではありません。
                                        
 同じような指示は,フッデJohann Huddeからも出されていたと思われます。遺稿集に掲載されたライプニッツの書簡である,書簡四十五書簡四十六には,フッデの名前が出ています。しかし掲載された段階では,この名前も伏せられていました。これはフッデから編集者に対する依頼が,ライプニッツからシュラーへの依頼と同じようなものであったための措置でしょう。この名前は遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriftenが出版されたときには伏せられなかったので,フッデと確定することができるようになったものです。オランダ語版のときに実名が出てしまったのは,手違いがあったからでしょう。オランダ語版は後から出版されているので,その時期には自身の名前が出ることをフッデが承諾したという可能性もなくはないですが,書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六については宛名が伏せられたままでしたから,この可能性はきわめて低いといえそうです。
 これらの事情から分かるように,ライプニッツもフッデも,何を最も求めていたのかといえば,自分とスピノザとの間に交流があったことが発覚することを阻止するということでした。そしてそれは,哲学的なあるいは思想的な交流があったということを秘匿するということに限られていたわけではなく,それ以外のあらゆる点で,交流があったということを公にすることを嫌っていたのです。少なくとも遺稿集が公刊された段階では,フッデのその要求は満たされていた,他面からいえば,編集者はフッデの依頼に完全な形で応じたといえます。でもライプニッツの場合はそうではなかったのです。
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