スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

燦燦ダイヤモンドカップ&別の可能性

2020-08-26 18:58:59 | 競輪
 昨晩の松戸記念の決勝。並びは岩本‐鈴木の千葉と山田‐村上の京都で平原と深谷と清水は単騎。
 村上がスタートを取って山田の前受け。3番手に岩本,5番手に平原,6番手に清水,最後尾に深谷で周回。山田は誘導との間隔を開けていきましたが,だれも動くことなく打鐘。周回中の隊列のまま,山田の成り行き先行のようなレースになりました。最終周回のホームから清水が発進。これに合わせるように岩本が発進。清水はこの影響で浮いてしまいました。バックで村上が岩本をブロックしたものの,岩本はそれを乗り越えました。ただ,清水の外から深谷も捲ってきたため,鈴木はマークすることができず。単独の動きになった岩本があっさりと山田を捲り切ると,そのまま抜け出して快勝。内を回って直線で山田と村上の間から伸びた平原が3車身差で2着。最後尾から大外を捲り追い込んだ深谷が4分の3車身差で3着。
 優勝した千葉の岩本俊介選手は5月の豊橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2011年9月の取手記念以来の2勝目。ただしこの取手記念は松戸での代替開催でした。このレースは実力では上位の3人が単騎戦を選択。それでも3人の上位独占があるのではないかと見立てていたのですが,その3人が後方に位置して動かないというまさかの展開。このために3番手にいた岩本が恵まれることになりました。牽制したわけではなく,たまたま清水とタイミングが合ったのでブロックする形になったのではないかと思います。もっと待っていたら清水に先を越されたかもしれませんから,発進のタイミングが勝利を引き寄せたといえそうです。

 スピノザの遺稿がリューウェルツJan Rieuwertszの手許に渡ってから,その編集作業が始まるまでにどれほどの時間があったかということ自体が不明なので,シュラーGeorg Hermann Schullerが当該の書簡を抜き取るだけの時間的余裕があったかということは分かりません。同様にそのための物理的条件,それはつまりだれにも気付かれずにそれらを抜き取るために必要な諸条件のことですが,そういう条件が整っていたのかどうかということも分かりません。ですがそれらの両方を否定することもできないのですから,確かにシュラーはそのような方法で書簡を抜き取ったという可能性はあるでしょう。
 ここではもうひとつ,これとは別の方法もあり得たのではないかということも指摘しておきましょう。
                                       
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,スピノザの死を看取ったのはマイエルLodewijk Meyerであり,マイエルただひとりであったことになっています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』も,基本的にこの説を採用しています。ですがそこで別の可能性として指摘されているように,これはコレルスJohannes Colerusに対して証言したスぺイクHendrik van der Spyckの勘違いであって,実際にスピノザの死を看取ったのはシュラーであったという説もあります。スぺイクがスピノザの死に際して証言した内容は,その死を看取った医師がマイエルであるとするより,シュラーであったとする方が合理性が高いように思われるからです。そしてもしもこれが真相であったとしたら,シュラーは遺稿がリューウェルツの手に渡る前の段階で,当該の書簡を抜き取り得た,少なくともそういう機会を得ていたことになると思われます。
 スぺイクの証言では,スピノザは急死したと受け取れます。ですが,診察している医師からすると必ずしもそうではなく,スピノザは徐々に衰弱しているのであり,余命はそう長くないということが分かっていたとしても不思議ではありません。そもそもスピノザがスぺイクに対して,遺稿の処置の方法を伝えていたのは,スピノザ自身に自分の死が近いという判断があったからだと考えられます。それはもちろんスピノザ自身による自身の身体に対する認識から生じたものかもしれませんが,医師の診断を参考にしたものであった可能性もないとはいえないでしょう。
コメント
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