スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&マイエルとイエレス

2020-08-18 18:59:16 | 将棋
 昨日の第33期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は羽生善治九段が38勝,丸山忠久九段が19勝。
 振駒で羽生九段の先手となり丸山九段の一手損角換り4。ただし☖4二銀ではなく☖2二銀。先手の早繰り銀に後手が飛車を4筋に回る展開。後手が角銀交換の駒損の代償にと金を作る分かれに。先手は居玉で,できたと金が4七でしたので,後手の方が分がよかったのではないかと思えます。
                                        
 先手が☗8二角と打ち込み,後手が桂馬を跳ねて銀取りを受けた局面。ここから☗6三歩☖同玉☗4五角☖5四銀☗2三角成☖同金☗同飛成という二枚換えの攻めに出ましたが☖4八歩と反撃されて先手陣は収拾がつかなくなりました。
                                        
 一直線の攻め合いに出たのは先手のミスで,第1図か,☗6三歩☖同玉とした局面で,実戦の攻め筋は含みに残し,一旦は☗6八王とでも早逃げしておくのが優ったのではないでしょうか。それなら☖4八歩は実戦ほどは厳しくないので,手番を渡してももう少し戦えたように思います。
 丸山九段が先勝。第二局は25日です。

 面識はなくても,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausを介することによって,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizとシュラーGeorg Hermann Schullerは互いの存在を知っていたのですから,スピノザに会いにいく直前にライプニッツがシュラーと会ったのは,チルンハウスの仲介によるものであったと思われます。
 チルンハウスは『エチカ』の草稿を所有することをスピノザによって許されていた人物でした。マイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig Jellesも同様でしたので,チルンハウスがオランダにいた時代に,マイエルやイエレスと会うということはあったかもしれません。ただし,マイエルやイエレスがオランダ人で,古くからのスピノザの友人であったのに対し,チルンハウスはドイツ人であり,留学のためにオランダにやってきたのはおそらく1668年です。その後でシュラーを介してスピノザを知ったのですから,スピノザとの交流が始まったのはもっと後になってからになります。スピノザとの間での知られている書簡の最初のものが遺稿集Opera Posthumaに掲載された書簡五十七で,これは1674年10月のものです。チルンハウスがオランダを離れたのはこの翌年の夏ですから,実際にスピノザと顔を合わせての交流があった期間はごく短い間だった可能性もあります。ですから,チルンハウスはマイエルやイエレスを知らなかったとしても不思議ではありませんし,知っていても会ったことはなかったという可能性も残ります。これらはいずれもそういう可能性があるということであって,僕は確定させることができないと思っています。
 ライプニッツはアムステルダムAmsterdamで,マイエルおよびイエレスとも会ったのだと思われます。おそらく別々に会ったのではないでしょうか。そしてその仲介は,チルンハウスによるものであったかもしれませんし,そうでなかったかもしれません。そうでなかった場合は,シュラーが仲介したとするのが妥当です。シュラーはイエレスともマイエルとも面識があった筈だからです。また,チルンハウスはそもそもマイエルやイエレスと会ってなかっただけでなく,よく知らなかった可能性もあるのですから,ライプニッツもまた,アムステルダムに到着したときには,ふたりのことをあるいは片方を,知らなかった可能性もあります。
コメント
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