スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

個別の派生感情&自然と内在

2020-03-21 19:04:58 | 哲学
 複数の派生感情というのを個別に考える場合には,注意しておかなければならないことがあります。
 僕は派生感情というのを,ある感情affectusAが発生するとき,前もって何らかの感情Bが存在していなければならない場合に,AはBの派生感情であるといいました。このとき,たとえばXという感情がある人間のうちにあり,そのXという感情を原因causaとしてYという感情が発生するのであれば,YはXの派生感情であるといわなければならないことになります。第一部公理三からして,この場合にXが存在していなければYが発生することは不可能であることになり,同時に一般的に原因はその結果effectusに対しては前もって,いい換えれば本性naturaの上で先立って存在するものなので,YがXの派生感情であるという場合の条件を満たしているからです。
                                   
 一方,たとえば安堵securitasと絶望desperatio,あるいは歓喜gaudiumと落胆conscientiae morsusが希望と不安からの派生感情であると僕がいうときは,因果関係を考慮しているわけではありません。ただ単に,安堵と絶望そして歓喜と落胆がある人間に発生するときには,その人間のうちに前もって何らかの希望spesおよび不安metusが存在していなければならないという点だけに着目しています。この相違がどこから発生してくるのかというと,因果関係を考慮しないで派生感情ということをいう場合には,きわめて一般的にいっているのに対し,因果関係を考慮した場合というのは,それらを個別に把握しようとしているのです。つまり,どんな場合であっても安堵と絶望,あるいは歓喜と落胆を人間が感じるときは,その人間は前もって希望と不安を感じています。しかしたとえば希望とか不安というのを僕たちが感じるときには,このような意味で一般的に感じるのではなく,個別の希望あるいは個別の不安として感じるのです。端的にいえば,Aに対する希望とBに対する希望は,同じ希望すなわち第三部諸感情の定義一二に該当する感情であっても,実際には異なった感情です。これは第三部定理五六から明白でしょう。
 そして感情を個別に考えたときは,落胆が安堵の派生感情である場合や,歓喜が絶望の派生感情である場合があり得ると僕は考えているのです。

 第四部序言に倣って神Deusを自然Naturaに置き換えるなら,すべてのものが自然に内在するのであって,自然の外部あるいは同じことですが自然を超越し得る何ものも存在しないということが帰結します。つまりスピノザの哲学の徹底した内在論は,あらゆるものが神に内在し,神の外部は存在せず,神はあらゆるものにとっての内在的原因causa immanensであるということだけではなく,あらゆるものは自然に内在し,自然の外部は存在せず,能産的自然Natura Naturansは所産的自然Natura Naturataに属するすべてのものに対して内在的原因であるということも帰結させていることになります。
 このことから,人間もまた自然に内在するもののひとつであることが分かります。もう一度注意を促しておきますが,ここでいう人間というのは人間の身体humanum corpusだけを意味するのではありません。人間の身体が自然に内在するもののひとつであるのと同じ意味で,人間の精神mens humanaも自然に内在するもののひとつです。いい換えれば,人間の身体が自然の外部に存在したり自然を超越したりすることが不可能であるのと同じように,人間の精神もまた自然の外部に存在するということはできませんし,自然を超越するということもできないのです。
 次に,自然をふたつの種類,すなわち能産的自然と所産的自然の二種類に分類したとき,人間がどちらに該当するのかといえば,それは所産的自然です。第一部定理二九備考から明らかなように,もし人間が能産的自然であると主張するなら,それは人間は神であるとか,人間は実体substantiaであるあるいは属性attributumであると主張しているのにほかなりません。ですがこれが不条理であるのは明白でしょう。またこのことは,第二部定理一〇からも明白であるといえます。そして同時にこのことは,第一部定理一五からも明らかなのです。すべてあるものが神のうちにあるQuicquid est, in Deo estなら,人間は神のうちにあるといわなければなりません。そして神のうちにあるといわれるものが能産的自然に属するのではなく,所産的自然に属するということは,何が能産的自然といわれまた何が所産的自然といわれなければならないのかということから明らかだからです。
 このことは神の方からだけでなく,自然の方からも示すことができます。
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