スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

漱石と「露西亜の小説」&第一部定理二九備考

2014-06-28 19:06:32 | 歌・小説
 権藤三鉉の『夏目漱石論』は,分量が少ない,あたかもパンフレットとか小冊子といった体裁のものです。これと同じような体裁の著作に,大木昭男の『漱石と「露西亜の小説」』という本があります。
                         
 権藤の著作は110ページ強。こちらは60ページ強しかありません。文字がこちらの方が小さいので,半分とまではいきませんが,さらに分量としては少ないのは間違いありません。
 序章が日本の近代文学とロシア文学について。第一章が漱石とロシア文学について。第二章は,漱石が残した日記の断片に関する研究。第三章は『明暗』とトルストイの『アンナ・カレーニナ』の関係についての研究。あと終章とおわりにと題された短文からなっています。
 第二章の日記の断片というのは,1916年のもので,露西亜の小説を読んで自分と同じことを書いていて驚いたという主旨のもの。『漱石日記』から考えて,これは僕が糖尿病の治療記とした部分に該当する筈。ただし僕がもっている『漱石日記』にはその記述はありません。大木は断片といっているので,本文とは別に書かれたものなのでしょう。
 僕がこの本を手に取ったのは,漱石とドストエフスキーの関係について,何か得るところがあるのではないかと考えたからでした。しかし大木の分析の多くは,漱石とドストエフスキーとの関連より,漱石とトルストイの関連に費やされています。それは第三章からも明らかでしょうし,第二章でいわれている露西亜の小説というのは,ドストエフスキーの小説の何かと考えられているけれども,それはトルストイのものであると大木は考えています。これに関する論述がおそらく大木の関心の大部分であったというのが,僕の読後の感想です。ですから第二章と第三章が,この小さな本の中心であるといえるでしょう。

 スピノザの哲学の主張を十全に把握したことを前提とするなら,第一部定理八備考二のテクストというのは,能産的自然所産的自然の分類であると理解しておくのが最も適切であるといえるかもしれません。いうまでもなく能産的自然に該当するのがテクストでは実体自身で,所産的自然に該当するのが実体の様態的変状です。
 もっとも,スピノザがここでそのように主張できなかったのは当然です。何が能産的自然であり,何が所産的自然であるのかが『エチカ』で明かされるのはもっと後,第一部定理二九備考だからです。
 「我々は能産的自然を,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性(中略)と解さなければならぬ。これにたいして所産的自然を私は,神の本性あるいは神の各属性の必然性から生起する一切のもの,言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態,と解する」。
 能産的自然と所産的自然は,概念としてはスコラ哲学のうちにも存在しました。ですから第一部定理八備考二でスピノザが標的としているであろう思想家たちも,能産的自然と所産的自然が区別されなければならないということは承知していた筈だと考えられます。ですからそのテクストがこのことに関連して実際にいっているのは,能産的自然と所産的自然の区別をしないということであるよりは,能産的自然に属するものが何であり,所産的自然に属するものが何であるかを知らないということだと解する方が,意味の上では正確だといえます。とりわけスピノザにとって問題となるのは,所産的自然が生起する原因から,能産的自然が生起する原因を推測するという態度であったことも間違いないと思います。そしてそのことは,自己原因と起成原因は,原因として明確に区分されなければならないというスピノザの考え方と,深く関係しているといえるのではないでしょうか。
コメント
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