派生感情という語を僕がどのように用いるのかということは説明し終えましたので,希望spesおよび不安metusと,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜gaudium,落胆conscientiae morsusが,この観点からどういった関係にあると僕が解しているのかの説明に移ります。
まず,第三部諸感情の定義一六の文言は,明らかに不安という感情affectusが事前に存在しなければ,歓喜という感情は発生し得ないということを示しています。同様に第三部諸感情の定義一七の文言は,希望という感情が事前に存在しなければ,落胆という感情は発生し得ないということを示しています。こうしたことはどの人間が歓喜ないしは落胆を感じる場合でも妥当するといわなければなりません。したがってまず,歓喜は不安の派生感情であり,落胆は希望の派生感情です。この点では僕は畠中説に同意します。
次に,第三部諸感情の定義一三説明は,ある人間が不安を感じるならその人間は希望を感じているし,逆に希望を感じているなら不安も感じているということを示しています。よって,不安の派生感情は希望の派生感情でもなければなりませんし,希望の派生感情は不安の派生感情でなければなりません。よって僕は,歓喜は不安の派生感情であるばかりではなく希望の派生感情でもあると解しますし,同様に落胆は希望の派生感情であるばかりではなく不安の派生感情でもあると解します。この点は僕は畠中説には同意しません。
第三部諸感情の定義一四の安堵は,何の感情もなくても,疑わしく思われていたものの観念ideaが事前に存在しさえすれば発生し得るというように読解することができます。このことは第三部諸感情の定義一五の絶望の場合にも同様です。僕は観念と感情の関係から,観念から派生する感情は派生感情とはいわないので,これでみると派生感情ではない安堵および絶望が存在し得るように思えます。ですが僕はそのような解釈は採用しません。歓喜と落胆が派生感情としてでなければ存在し得ないのと同じように,安堵と絶望もまた派生感情としてでなければ存在し得ないと解します。
確認した事柄から,この定義論でスピノザがいっている原因causaというのは,スピノザ的な起成原因causa efficiensというより,デカルト的な作出原因causa efficiensと解するのが妥当であるということが帰結していると僕は考えます。なぜなら,もしこのとき,スピノザが自己原因causa suiについて確たる概念notioを有していたのだとしたら,自己原因を事物が発生する原因であると認めていなかったことになります。僕はこちらの可能性は薄いと思いますが,この場合に原因というのが,デカルトRené Descartesがいう作出原因であることは疑い得ません。デカルトがそこから自己原因を除外しているように,スピノザがいっている原因からも自己原因は除外されているからです。一方,僕はこちらの可能性が高いと思っていますが,このときにスピノザが自己原因について確たる概念を有していなかったのであるとすれば,スピノザは事物が発生する原因として,自己原因というものがあるという考え方に至らなかったでしょう。デカルトは自己原因について何らかの概念を有していたとは思われますが,たとえ表向きのことであったとしても,自己原因というものが存在するということ自体を否定していたのですから,スピノザはこれと同じか,酷似した考え方をしていたことになるからです。
僕がここで重要視したいのは,このような考え方が,創造されない事物の定義Definitioはどうあるべきかということと関連して主張されているということです。つまり,自己原因という概念について,あるいは事物が発生する原因としての作出原因という概念について,どうやらデカルトから強い影響を受けていたと思われる論旨を展開しているスピノザは,当の議論の中心になっている定義論に関しても,デカルトからの強い影響を受けていた可能性が高かったと思われるのです。なので『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』のこの部分だけを抽出して定義論を結論づけると,それはスピノザの哲学全体から結論づけられるべき定義論の結論より,むしろデカルトの哲学にとって妥当するような定義論の結論になってしまう可能性が高くなってしまうのではないでしょうか。このために僕が前にいっておいたように,この定義論は,『エチカ』によって補完される必要があるのです。
まず,第三部諸感情の定義一六の文言は,明らかに不安という感情affectusが事前に存在しなければ,歓喜という感情は発生し得ないということを示しています。同様に第三部諸感情の定義一七の文言は,希望という感情が事前に存在しなければ,落胆という感情は発生し得ないということを示しています。こうしたことはどの人間が歓喜ないしは落胆を感じる場合でも妥当するといわなければなりません。したがってまず,歓喜は不安の派生感情であり,落胆は希望の派生感情です。この点では僕は畠中説に同意します。
次に,第三部諸感情の定義一三説明は,ある人間が不安を感じるならその人間は希望を感じているし,逆に希望を感じているなら不安も感じているということを示しています。よって,不安の派生感情は希望の派生感情でもなければなりませんし,希望の派生感情は不安の派生感情でなければなりません。よって僕は,歓喜は不安の派生感情であるばかりではなく希望の派生感情でもあると解しますし,同様に落胆は希望の派生感情であるばかりではなく不安の派生感情でもあると解します。この点は僕は畠中説には同意しません。
第三部諸感情の定義一四の安堵は,何の感情もなくても,疑わしく思われていたものの観念ideaが事前に存在しさえすれば発生し得るというように読解することができます。このことは第三部諸感情の定義一五の絶望の場合にも同様です。僕は観念と感情の関係から,観念から派生する感情は派生感情とはいわないので,これでみると派生感情ではない安堵および絶望が存在し得るように思えます。ですが僕はそのような解釈は採用しません。歓喜と落胆が派生感情としてでなければ存在し得ないのと同じように,安堵と絶望もまた派生感情としてでなければ存在し得ないと解します。
確認した事柄から,この定義論でスピノザがいっている原因causaというのは,スピノザ的な起成原因causa efficiensというより,デカルト的な作出原因causa efficiensと解するのが妥当であるということが帰結していると僕は考えます。なぜなら,もしこのとき,スピノザが自己原因causa suiについて確たる概念notioを有していたのだとしたら,自己原因を事物が発生する原因であると認めていなかったことになります。僕はこちらの可能性は薄いと思いますが,この場合に原因というのが,デカルトRené Descartesがいう作出原因であることは疑い得ません。デカルトがそこから自己原因を除外しているように,スピノザがいっている原因からも自己原因は除外されているからです。一方,僕はこちらの可能性が高いと思っていますが,このときにスピノザが自己原因について確たる概念を有していなかったのであるとすれば,スピノザは事物が発生する原因として,自己原因というものがあるという考え方に至らなかったでしょう。デカルトは自己原因について何らかの概念を有していたとは思われますが,たとえ表向きのことであったとしても,自己原因というものが存在するということ自体を否定していたのですから,スピノザはこれと同じか,酷似した考え方をしていたことになるからです。
僕がここで重要視したいのは,このような考え方が,創造されない事物の定義Definitioはどうあるべきかということと関連して主張されているということです。つまり,自己原因という概念について,あるいは事物が発生する原因としての作出原因という概念について,どうやらデカルトから強い影響を受けていたと思われる論旨を展開しているスピノザは,当の議論の中心になっている定義論に関しても,デカルトからの強い影響を受けていた可能性が高かったと思われるのです。なので『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』のこの部分だけを抽出して定義論を結論づけると,それはスピノザの哲学全体から結論づけられるべき定義論の結論より,むしろデカルトの哲学にとって妥当するような定義論の結論になってしまう可能性が高くなってしまうのではないでしょうか。このために僕が前にいっておいたように,この定義論は,『エチカ』によって補完される必要があるのです。