スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

明治時代の新聞&人新世

2020-03-17 19:40:29 | 歌・小説
 夏目漱石は読売新聞から入社の誘いを受け,条件が折り合わずに破断。その後に朝日新聞からも誘いを受けて,合意をして入社しました。当時は漱石に限らず,一流の作家が入社の誘いを受け,また社員として作品を紙上に掲載していました。こぞって作家に入社してもらおうとした新聞社の事情について考えるとき,まず現代に生きる僕たちの常識という面から,注意しておかなければならないことがいくつかあります。
                                         
 読売新聞とか朝日新聞というのは,現代でいえば日本を代表するような大新聞です。しかし,漱石が誘いを受けた頃はそうだったわけではありません。つまり漱石は読売からの誘いを断って朝日に入社したというと,いかにも大手の新聞から誘いを受け,また漱石が何らかの価値観の下に一方を選択したと僕たちは思ってしまいがちですが,そういうわけではないのです。むしろ現代的な感覚でいうなら,この当時は読売新聞も朝日新聞もタブロイド紙のようなものであったと把握しておく方が,この当時の事情については正確な印象をもつことができるでしょう。
 もうひとつ,朝日新聞であれ読売新聞であれ,現代社会でそういう一般紙を読んでいる読者の多くは,デジタル版を別とするなら,自宅に宅配された新聞を読んでいる筈です。当時はデジタル版などあろう筈がありませんから,新聞とは紙の新聞を意味します。ところが当時の紙の新聞の読者というのは,月間の新聞代を支払って宅配される新聞を購読していたわけではないのです。なぜなら,明治時代の新聞には宅配制度はなかったからです。今でもスポーツ新聞の場合は,宅配で読む人よりも駅の売店やコンビニエンスストアでその日のものを買って読むという人の方が多いのではないかと思いますが,当時は一般紙というのも,それと同じように,その日の新聞をどこかで買って読むものでした。なので,新聞を読むためには買いに行くという必要があり,基本的に家で過ごしているような人が,読みたいときに読むことができるようなものではありませんでした。
 これらふたつの事情は,今の僕たちにはすぐに理解することは難しいのではないかと思います。なのでここには留意しておかなければなりません。

 「人新世」が地質学会の中でどう評価を受けているのかということについて何も語らなかったのと同様に,近藤がそのプロセスとして示しているよっつのシステムおよびそれらのシステムの連関性についての妥当性についても僕はここでは何も講評しません。というよりそのような講評は今はする必要がありません。なぜならここでの目的は,近藤の関心の中心がどういう点にあるかを説明することであって,そうした近藤の関心事に関する見解が妥当であるかそうでないかは関係ないからです。
 これでみれば分かるように,近藤の関心の中心はきわめて現代的なこと,少なくとも「人新世」という地質学的な時代が開始されたと近藤が指摘している1950年代以後から進行形で継続している現代的なことであることが分かります。そして同時にそれは,思弁的なあるいは形而上学的な関心であるというわけではなく,科学技術産業,経済,軍事,そして政治という,きわめて幅の広い部門にわたる関心であるということも分かります。一方で僕についていえば,その関心はスピノザの哲学にあるのであって,それをより明確に解明するということに力を注いでいます。したがって,近藤の主張することの中には僕の力では理解することが困難な事柄が多数含まれているであろうということは,僕だけにではなくだれにでも容易に理解することができるでしょう。そしてまた,それを理解することに傾注することは,僕の関心にとってはそれほど意味がないことであるということも理解してもらえるだろうと思います。僕は最初に,『〈内在の哲学〉へ』については,『主体の論理・概念の倫理』の補足のためにだけ読んだといいましたが,それが具体的に意味しているのはこういうことです。
 近藤にとって「人新世」は,克服されるべきもの,あるいは揚棄されるべきものです。なぜなら「人新世」とは,人類の営みが地球環境に対して,大規模自然災害並みの影響を与える時代のことを指すからです。したがって「人新世」の最終地点は環境破壊であり,それは同時に人類の終焉を意味することになるでしょう。なので「人新世」が近藤にとって肯定的に評価される筈ありません。
コメント
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