スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典桜花賞&補足

2020-03-25 19:34:46 | 地方競馬
 第66回桜花賞。おそらく人の移動に制限が掛けられたために,スティローザは金沢の吉原騎手から保園騎手に,ミナミンは高知の赤岡騎手から今野騎手に変更。
 アンジュエトワールは立ち上がってしまい1馬身の不利。即座にボンボンショコラが先頭に立っての逃げ。2番手にテーオーブルベリー,アクアリーブル,ブロンディーヴァの3頭。5番手にルイドフィーネとレイチェルウーズ。2馬身差の7番手にスティローザとトキノノゾミ。9番手にアンジュエトワール。10番手にマッドシティ。3馬身差の最後尾にミナミンで1周目の正面を通過。向正面に入ると軽快に飛ばしていったボンボンショコラのリードが3馬身から4馬身に広がり,単独の2番手にテーオーブルベリー,3番手にルイドフィーネとアクアリーブル。5番手にレイチェルウーズとブロンディーヴァという隊列に。前半の800mは49秒8のミドルペース。
 向正面の半ばを過ぎてから,テーオーブルベリーがボンボンショコラとの差を詰め始めにいきました。アクアリーブルがそれを追い掛け,4番手にルイドフィーネ,内の5番手にレイチェルウーズ,6番手にブロンディーヴァ。ボンボンショコラ,テーオーブルベリー,アクアリーブルの3頭はコーナーで併走に。直線に入るとボンボンショコラは一杯になり,残る2頭が抜け出しての競り合い。最後は外のアクアリーブルが差して優勝。テーオーブルベリーが4分の3馬身差で2着。ボンボンショコラとテーオーブルベリーの間を突こうとしたものの,伸び脚に欠けたルイドフィーネが2馬身半差で3着。
 優勝したアクアリーブルはホッカイドウ競馬に在籍していた昨年10月に,盛岡に遠征しての岩手の重賞を勝って以来の勝利。このレースはレイチェルウーズの能力が断然で,枠順も6番なら何とかできるだろうと思っていました。実際に極度の不利があったわけではないのですが,結果的にいえばそれほど速いペースではなかったのに位置取りが後ろ過ぎたために,末脚不発という内容に。レイチェルウーズが精彩を欠けば,前走でその2着となっていたアクアリーブルにもチャンスが巡ってくるのは自然でしょう。実力上位馬の凡走による優勝と思われますので,あまり高い評価はしない方がよいかもしれません。母は2012年のNARグランプリで3歳最優秀牝馬に選出されたアスカリーブル。その父は1999年にセントライト記念に勝ったブラックタキシード
 短期免許で騎乗している山本聡哉騎手は2017年の大井記念以来となる南関東重賞2勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は南関東重賞40勝目。第52回以来14年ぶりの桜花賞2勝目。

 近藤がどのような考えの下にスピノザの哲学,内在の哲学としてのスピノザの哲学に可能性を見出しているのかということは理解してもらえたものと思います。そして同時に,僕が『〈内在の哲学〉へ』の中に,僕の能力では十分に把握し得ない箇所が多々あったとしても,それについて詳しく検討するということを,あえてしなかった理由というのも,同時に分かってもらえたのではないでしょうか。それではここからは僕がこの書籍を読んだ本来の目的,すなわち『主体の論理・概念の倫理』について考察したときによく分からなかったことの補足に関する考察に移ります。
                                        
 『主体の論理・概念の倫理』は,パリの高等師範学校と,エピステモロジーサークルに属する学者たちの論述を研究の対象としていました。近藤によれば,このグループの中には党派的なものがあったそうです。このことは『主体の論理・概念の倫理』を対象とした僕の考察と直接的に関係するわけではありませんが,大なり小なりの影響があると思われますし,何よりも僕自身にとって無視することができないことなので,少し詳しい説明を与えておきます。ですがその前に,以下のふたつの点に注意しておいてください。
 僕がいっているのは,高等師範学校なりエピステモロジーサークルなりが党派的なグループないしは集団であったということではありません。その集団の中には,確かに党派的な思想を有しているといえる学者も存在していたということです。他面からいえば,党派的な学者もいたけれどもそうではない学者もいた,おそらく党派的ではない学者の方がずっと多数でした。ですから学校やサークルが党派的であったわけではありません。このことは注意点としては簡単でしょう。
 おそらく問題となるのは,もうひとつの注意点です。僕は党派的であるということと,政治的であるということとは厳密に分けて考えます。これは多くの人がそうではないかと思うのです。ただ,僕が何をもって党派的であるといったり,どういうことを政治的であるといったりするのかということは,たぶん特殊だろうと思うのです。その特殊な意味で,党派的な学者がいたと僕はいっているのです。
コメント
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