スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&考える効用

2016-06-02 19:24:58 | 将棋
 昨日の第57期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は木村一基八段が2勝,豊島将之七段が2勝。
 振駒で木村八段が先手になり豊島七段の横歩取り。先手が攻めて後手が押さえ込みにいくという将棋になりました。横歩取りの後手の展開としては不本意だったかもしれませんが,成り行きからこのように進む場合もあります。
                                     
 8筋での飛車交換を後手が避け,先手が2筋に飛車を回ったのに対して駒を進出させるべく歩を突いたところ。先手は☗7四歩と打ち☖6五桂に☗6六歩と桂馬を取りにいきました。何もしないでいると押さえ込まれる可能性は高くなるので,いい判断だったのかもしれません。
 後手は桂馬は見捨てて☖6三銀と上がりました。方針としては一貫している手だと思います。先手は☗6五歩と駒得を果たし☖同歩に☗3三角成☖同桂と交換してすぐに☗5六角と打ちました。
 ☖4五銀は☗2三歩成で崩壊ですから☖4五桂はこの一手。先手は☗2三歩成☖同金☗4五角と攻めを継続しました。
 もしもここで☖2五歩~☖2四歩と打つ手が成立すれば後手が押さえ込めていたのではないかと思います。ですがそれは☗3五飛という強手があって後手が苦しいようです。そこで単に☖2四歩と打ちました。先手は☗6三角成。
                                     
 この局面で左でも右でも角を引いておけば一時的に先手が桂馬を二枚も得するところでした。ですがその展開は必ずしも先手が圧倒的によいというわけでなく,後手にも押さえ込む手段を与えることになったかもしれません。精査すれば暴発だったという危険性を秘める手ではありますが,ここで一気に斬り込んでいったのが,先手に勝ちを引き寄せたのではないかと僕には思えました。
 木村八段が挑戦者に第55期以来2年ぶり3度目の王位挑戦になります。

 どんな事柄であったとしても何かを「考えるconcipere」という行為は,考える当人に対して悲しみtristitiaを生じさせるものではありません。したがって,たとえば自分の身体corpusの老化現象を自分の身体の本性essentiaの変化という観点から考えている限り,それは悲しみとはならないのです。ここから分かるように,人間はたとえ悲しみを感じたとしても,その悲しみについて考えている限りは,その悲しみから解放されることになるのです。いい換えればより大なる完全性perfectioからより小なる完全性へと移行せずにすむのです。このことは,一般に考えるという行為にはある特別の効用があることを示しています。一例をあげてみましょう。
 柄谷行人に「スピノザの「無限」」という論考があります。この冒頭部分で柄谷は,学生時代にアランを通してスピノザを知ったといっています。アランは『スピノザに倣いてSpinoza』の著者ですから,柄谷はそれを読んだのかもしれませんし,あるいはほかのアランによるスピノザへの言及を読んだかもしれません。いずれにせよアランがスピノザについて何かを語るというのは何ら不思議なことではありません。
 このとき柄谷は,スピノザの哲学はデカルトRené Descartesの哲学と異なり,情念affectusを意志voluntasによって克服することはできないとされているけれども,その情念について考えることはできて,もちろん考えたからといってそれだけで情念から自由libertasになれるというものではないけれども,それについて考えている間だけはその情念から自由であることができるとアランが指摘していたことに感銘を受けたのだそうです。その理由は柄谷自身が情念に揺すぶられて生きているからだそうです。柄谷自身は強調していませんが,この部分は柄谷のスピノザ受容にとってたぶん重要です。柄谷が情念に揺すぶられて生きているというとき,それは柄谷自身がそういう人間であるということだけを意味しているのではなく,自分がそういう人間であることを柄谷自身が自覚しているという意味を含んでいるのであり,この自覚がスピノザ哲学の理解には大事だと僕には思えるからです。第四部定理三第四部定理四を,自分のこととして認識するcognoscereということは,スピノザの理解に重要なのです。
コメント
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