もう7年も前に書いた記事なのに、選挙が近いせいかアクセスが増えているようです。
先の記事も書いた、司馬遼太郎「竜馬がゆく」にある「議論で勝っても、その人間を打ち負かしたことにならず、むしろ逆に反感を買われる」という言葉……個人的には、あまりよろしくないかと思っています。
そもそも、議論の前提が「勝ち負け」を基準にしていること自体が如何なものかと思います。
議論にスポーツ的要素はありますが、スポーツではありません。
議論の目的のひとつは、正解がないものについて意見を交わすことであって、白黒をつけることは二の次であると思うからです。
考えてみれば、「政治と宗教と野球の話はするな」というのは、どれも正解があるものではないゆえ、相手の意見が変わらないことが前提の言葉です。結論が決まった相手に議論することに、意味がないですからね。
今度の選挙について興味深いのが、安倍総理の演説にヤジった人たちを警察が排除したという件です。この一件をめぐり、右と左で意見が真っ二つに別れています。
左の人たちは「ファシズムの到来」と言い、右の人は「法の遵守だから当然」と言ってます。
もちろん私の意見は後者ですね。
明らかな左翼のプロ集団が敵意をむき出しにして、一国の総理の選挙妨害をしたら、警察(すなわち国家権力)が動くのは当たり前と思います。
でも、警察が排除した人たちに対して敵意がなかったかといえば、それは違うでしょう。警察は赤軍派らに殉死を強いられた過去がありますから、手心を加えなかったと言えば嘘になりましょう。「ファシズムの到来」と言われる口実を作られてしまいましたね、と言う感じかな。
まあ、同じことが中国や北朝鮮であったら記事にすらできないわけで、こういう議論が起こることはわるいことではないし、むしろやった方が良いと思います。
ともかくもわが国は同調圧力に走る体質がありますからね。
▲こちらはシチリア、パレルモ市内で展示されていた、マフィアの犠牲者の写真展です。この展示がされているというのは、未だにシチリアでマフィアが存在して力をふるっているということですね。
でも、これがたかだか20年前だったら展示すらできません。
この展示が堂々とできるようになっただけ、イタリア社会が変わったと見るべきでしょう。
私が子供の時分には、イタリアの警察署長や裁判長らがマフィアに次々に暗殺されていて、父がよく「すげえ国だな」と言っていたのを覚えてます。その頃とは、隔世の感があります。
そんなわけで、相変わらず天気は良くありませんが、安倍政権が嫌いな人も好きな人も、どっちでもない人も今日は選挙に行きましょう。
政治のいちばん大切なお仕事は、思想やイデオロギーではなく、税金の徴収と分配です。健全なお金の分配が、世の中のため必要。それから、そのための社会システム作りかな。まあ、実は一番それが難しいのですが(笑)。
投票して、開票して、結果が出ても、すぐには世の中変わりませんが、みんなのお金がより良い形で回るよう、一票を投じるべきだと思う次第です。