先週9月3日、中国で行われた「抗日戦争勝利70年」の軍事パレードだが、あれを見ても「安保法案反対」を唱えているというのは、思考回路を疑わざるを得ないだろう。
同じことを日本がしたら(するはずないが)、隣国がどう反応するか、その人たちに聞いてみたいものである。
そもそも中国共産党と日本は戦争をしていないから、実は勝ったも負けたもあったものではない。当時の共産党は弱過ぎて、日本と戦うことなど考えられもしなかったということはある。
「歴史を直視しろ」と言いながら、歴史を捏造しているのだから、ウソつきはこの国のお家芸と言ったところだろうか。
昨年までは、このようなパレードはされなかったわけだが、中国共産党はハッキリと「抗日」と言って、日本を名指しで仮想敵国としている。
あれを見て「中国は攻めて来ないんですよ」と主張する鳥越なにがしというジャーナリストたちは、まさに確信犯的な中国の手先と”レッテル張り”をされても仕方ないだろう。
また、頑なに安保法案を「戦争法案」「徴兵制」というデマを流し、政治を知らない若者や主婦を煽動する民主党や日本共産党、社民党も同じである。
その抗日パレードに出席した村山元総理などは、とみに非難されるべきであろう。
(だが、個人的には先に拙ブログで申し上げたように、村山談話は何の問題もないという意見である)。
安保法案を「戦争法案」とデマを流し、中韓の首脳たちを喜ばせているマスコミや政治家たちがいる一方で、自分たちに利害はないが、とにかく反対している人たちもいる。
これが、残念なことに我が同業であるエカキや文筆家、音楽家など、俗にアーチストと呼ばれる人たちの中に実に多い。
その人たちの好きな考え方の中には、ガンジーの提唱した非暴力運動がある。
わたしも湾岸戦争までは、ガンジーの非暴力主義を至上と考える人間だったが、年齢を重ねるごとに、その考えは変わってきた。インドではガンジーを必ずしも快く思わない人は多い。何度も繰り返すが、非暴力運動によってなぶり殺しに遭ったインド人も少なくないからだ。
誤解を恐れず申し上げると、非暴力運動と神風特攻隊の本質は近い。
非暴力は相手を100%殺さない、自分は必ずしも命を落とさない。
特攻は相手を殺し、自分もほとんど100%の死・・という違いはある。
大きな違いは、相手を殺すか殺さないかということだが、どちらも我が身を呈して相手に戦いに挑む点は共通である(反対意見歓迎)。
戦において最低の戦いとは、後ろから味方を撃ち殺すことだと言われるが、非暴力も特攻もその点では最低の作戦であると言わざるを得ない。
もちろん、それによって命を捧げた人たちには敬意をあらわすほかはないのだが。
今も中国共産党に迫害されるチベットの人たちは、自らを焼身自殺して抗議する。
安保法案に反対する人たちは、自分たちがあのような立場にならないと思っているのだろうか。
私はその点が不思議でならないのだ。