先日、seedsbookさんのところにコメントした時、ふとユトリロの名前を出した。それで、ちょっとユトリロについて書きたくなった。結局、何を書きたいのか分からなくなるかも知れないけれども。
モーリス・ユトリロは、海外よりも、多分、日本人に馴染みの深い画家だと思う。フランス人で、モンマルトルの何気ない街角を、白い色彩で描いた画家として、知られている。
僕が初めてユトリロの絵を見たのは、小学校の時、美術の教科書で、「コタン小路」を描いたものだった。僕はこの絵に、どういうわけかとても強い印象を受けた。何でもない絵には違いないのだが、惹かれた。それで、小さな絵だったが、切り抜いて、大事に持っていた。
それからもユトリロの絵はずっと、何となく気にはなっていたのだが、だんだんと絵の趣味も変わり、特に追うということは無かった。だから、ユトリロという人物がどういう人物なのか、全く知らなかった。ただ、何となく勝手に、こんな風に思っていた。ずっと年老いた老人が、消え行く命を見つめながら、懐かしむように自分の街を描いているのだと。
それが全く僕の勘違いだと知ったのは、ほんの数年前のことだ。
ユトリロの最良の作品群である「白の時代」の絵──ユトリロの絵は、この頃に描かれたものしか、殆ど価値がないと言っていい──は、アルコール中毒治療のために絵筆を執るようになった、二十歳台の後半の僅かの時期に描かれたものだった。
ユトリロは、母シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれた。父は誰だか分からず、生まれて間もなく祖母に預けられた。母は、ルノワールやロートレックなどのモデルとなるほどの人気者だったようだが、身勝手で奔放だった。もっとも母を欲する幼年期に、ユトリロは両親の愛情も知らずに育った。だが、奔放で人生を謳歌する母は、ユトリロにとっては聖母のようにも見えたらしい。だからなおさら、時々姿を見せる母の愛情を、ユトリロは希求し続けたのだろう。
ここまでなら、よくある話と言えなくもないだろう。だが、酷いのはここからである。
ユトリロの祖母は、愛情に飢えて精神不安定になるユトリロに手を焼いて、まだ幼児のうちから、スープにぶどう酒を混ぜて与えるようになる。勿論、子供だから、手もなく酔いつぶれて眠ってしまう。ユトリロは15歳でもう立派なアル中だったらしいが、これでは当然だろう。
その後、治療のために入院した先で、絵を描く事を勧められ、いやいやながら絵筆を執るようになった。これが、その先で、さらに悲劇を呼ぶ事になるとは思わなかっただろう。
絵を描く事を、母は喜んだ。ユトリロはそれを励みに絵を描くようになったのだが、やがて絵が売れるようになると、その絵の代金がさらなる酒の代金に変わった。さらに、その頃、信頼していた唯一の親友が、よりにもよって自分の母と恋に落ち、結婚してしまったのだ。ユトリロは荒れて、この頃、警察の世話になることも多かったという。だが、ユトリロが孤独になればなるほど、絵は静謐さを増していった。絵を描いているあいだは、何とかアルコールを断っていることもできるし、やりきれない気持ちも紛らすことができたせいなのだろう。そうした絵は、街の人々に人気が出て、高く売れるようになった。
すると、母と元親友は、ユトリロを鉄格子のついた部屋に監禁し、絵葉書を見ながら絵を描くことを強要し始めた。絵が売れるからだ。ユトリロはもはや逆らう気力も無く、淡々と絵を量産し始めた。そして、ユトリロの絵は、完全に死んでしまった。もはや、看板絵と変わらない絵を、ユトリロは、大量に描いた。
と、まだ悲劇は続くのだが、ユトリロの絵とは、そういう絵だ。
以前、展覧会で見たとき、「白の時代」の絵の素晴らしさと、その後の絵のギャップに、あまりに驚いた。そして、その場でユトリロの生涯を知り、一人の人間が壊れて行く姿を見たような気がした。
ユトリロは、同時期のモディリアーニに比べられることも多いが、あくまで一アーティストとしての誇りを持っていたモディリアーニとユトリロとでは、比べるのは難しい気がする。ユトリロの才能は、酷い環境(とんでもない母親もいたものだ)のせいで無理矢理引き出されてしまったものだ。そして、無理矢理摘み取られてしまった。
今、googleで検索すると、ユトリロの絵を廉価で!というような宣伝のあるサイトが大量にヒットする。今に至っても、ユトリロは消費され続けている。
ユトリロのような才能を見るとき、これをどう考えるべきなのか、分からなくなる。これはアーティストなのだろうか。それとも、ただの犠牲者なのだろうか?
ゴッホしかり、アルコールで酔った芸術家がいかに大衆を酔わせたか、認めざるを得ません。ゴッホの場合は酔うと危険人物化するのでアルルの町を追放されたとか。。。緑のお酒アブサン飲み散らして。。
ユトリロの絵は確かに白の時代の方が圧倒的に人気がありますね。 大衆はアル中を卑下する割には「芸術」という面目上は文句を言わない。。。恐るべし大衆。
何となく落語家さんにも共通点があるような。。「人生よりも芸」的な姿勢はカッコいいけど、何でも芸の肥やしやからって挑戦する事には、相当覚悟が要りますよね。
シンクロシニティってやつでしょうか?
僕はアル中がいいとは、全く思っていません。ジャンキーもそうですね。「芸のためなら・・・」的な生き方も、あまりかっこいいとは思いません。大抵は、ただ迷惑なだけのことが多いですから。
ただ、そうした負の状態の中であがいている姿が、時々、真摯に心を打つことがありますね。
不思議な静謐感があるんですよね。
アルコールや精神疾患がその絵を描かせたというより
ゴッホにしても絵を描いている時だけは息をつけたんだと思います。
苦悩の中で絵を描く事が唯一の救いだったような気がします。
話は変わりますが、何気ない淋しげな街角を切り取っただけなのに
どこか惹かれる魅力的な写真を撮る人がいます。
僕も時々はそんな写真を真似するように撮るんですが
もう僕のブログに、そういう写真を出す事は似つかわしくないような感じになってしまいました。
写真ブログも続けていると、そのブログが性格を持って一人歩きしてしまうようなところがあるようです。
アルコールからアルコールへの、束の間の空白の時間に、透明な気持ちになって描いていたんだと思います。
ゴッホは、またちょっと違う気もしますけれど、それについて書き始めると長くなりそうですね。
shuさんのブログ、毎日見ています。
僕は、shuさんの何気ない写真が好きなので、ぜひアップしていって欲しいと思うのですが。。。
あるいは、もうひとつ、趣味のブログを別に作るとか?
僕は、趣味のブログを別に一つ作りましたが、まあ、二つを同時に運営するのは、結構大変ではあります。それでも、共同運営という形にしたので、幾らか気は楽なのですが。
なんだか、自分の事を言われてる様な気がします。。。