つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

あきらめること

2019-01-17 | Weblog
諦めるということ。
言葉という文字に最高を表す帝王の帝の字を付けて、言葉の最高位を示している文字。

諦=真実を曇りのない眼で見る。

明らかに見ることができたためにできた判断。
その判断に誤りがないのは、知恵の身に付いた判断だけである。
もし、知識だけでの判断であれば曖昧である。
で、必ずしも、正しい判断とはならない。


諦めるということは、明らめるまで投げ出さないでやり通すことができたための判断、決断であるということ。
それは、知識ではない、知恵の身に付いた眼で見ることができた判断でなければ正しい判断とはならない。
諦めるということはとても重い言葉である。
物事はそう簡単にあきらめることができないものである。
途中で投げ出さないで諦めること。

知恵を身につけること。これに尽きる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常識外

2019-01-13 | Weblog
エネルギーが存在の源である。
エネルギぎーがあるための世界であるために、無というのは存在しない。
宇宙がエネルギーの世界であるために、その中で、無ということについて思考しても
意味のないことである。考えても仕方がないこと。
或いは、無から有はできないのが道理であるために、道理にないことは考えることはできない。
これを不可思議という。不可思議なことを思うことを無駄という。

要するに、エネルギーの無いところには存在は無く、存在のないことを存在にあるものが
考えることはできないのである。答えは出てこないのである。

文殊師利菩薩は、「無」とは何かと問われてあれこれ述べたが、では、「無とは何か」と維摩居士に問い返したときに、維摩居士は
口一文字で答えとした。文殊菩薩は確かな答えに感嘆した。維摩は在家の修行僧である。

エネルギーの存在の中では、すべてが不思議である。
だから、心次第でどうにでもなる世界である。これは、
あまりにも簡単に述べた結論なのだが、結論に至る道のりは深遠である。
ありのままに物事を見れば、空間と時間がはだかるために、一つ一つ越えてていかなければならない。
それには、膨大な時間、つまり、距離を要する。
が、空間と時間を抜かせば瞬時に目的を見ることができる。辿り着くことができる。
これがエネルギーの不思議であり自由である。
人間の科学も進歩してきて、空間の隔たり、時間の隔たりというものを省いていけることを
想像できるようになってきた。まだ量子的な分野を解していないために達成できていないが、
やがて瞬時を得ることはできるだろう。要点は心の動きにある。

存在していることがエネルギーによるものである為に、私達もエネルギーの存在である。
エネルギーは動くものであるために、その動きの変化によって様々なエネルギーとなって存在している。
決して無くならないものである。ただ変化しているものであり、これを無常という。
無常が常住、これがエネルギーの在り方、この源が自由となっている。
フリーエネルギーであるために、独立にあり、他に由らなくても勝手に動く。
自然が何かの力を借りて動いているのではないように、エネルギー世界は、
無限な動きとなっている。自らしかありである。だから、本来私たちが生きていくにも、
無償で生きていけるのである。人間以外の生物はすべて無償で生きているのを見てもわかるように、
お金というものは不要なのである。心の通い合いで生きていけるものなのである。
お金は人間の悪なる仕業である。
人間にある煩悩、心の歪がお金というものを作ったのが根本の間違い。苦の創造である。


仏という知的生命体は、心もエネルギーであるために、心が生命であり、
肉体を持って生きていくことによって、心の在り方を磨いていけば、
何事にも思いのままになっていくことを訓えた。不思議を得られると諭したのである。
あれこれと思議することの不要さを訓えたのである。
エネルギーの法則を正しく理解していけば、その知恵によって何事も瞬時に正しく判断できていくために、
般若心経でエネルギーの法則を説き、心をどうあるべきか、どう磨いていくかを説明して、観音経では
その力がどういうものであるかを説いて、エネルギーが不思議な世界であることを訓えていったのである。

さて、エネルギーの世界は唯一純粋な世界であるが、見る限り相対的にあり、以って、曖昧な
三つ巴の世界となって感覚されている。
エネルギーはただ回るだけのものであり、それ以外に理由などないが、
心がエネルギーであるように、存在も意思のエネルギーである。
存在であるから生きているものであって意思によって動いている。その意思が自由意思である。
善悪も自由意思である。その自由意思にはただ回るという正義があるだけで、善悪もその繰り返しの巡りの正義にある。
つまり、善悪が無いための正義が絶対善となる自由。

変われるのは、常識外にあるものだけである。
常識にあるものからは、新は生まれない。
発展、進化がすべて常識外から出来てくるように!




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の問題

2019-01-12 | Weblog
この地球の住民は、すべからくに於いて隷属社会にあり、
奴隷の星である。
監獄、牢屋の星として存在している。
地は揺れ動きそらは乱れて、ことごとく生物に安定をもたらすことがない。
生じては滅していく周期を持つために、智者達は、一応に居住したいとは思わない。

哀れにも無知なる因果に於いて、地上の人となりし身に、何の希望があるでしょう?
このがんじがらめにある虚像に光を見るなら、気違いとして覚れ。

個性的であればあるほどその才知に優れるが故、
協調性に欠けるとして弾かれる。
従属することを嫌えば住み辛く、ただ生き苦しいのは、それこそ正義のエネルギーにあるために他ならない。
悩めることが憂いの克服。
孤独こそ自由である。
独り法師(ひとりぼっち)が幸福の極みとなることをこの星の住民は知らない。
無知は、地獄に縛られる。この星の悲しさに縛られる。
もう死ぬのだからと、秩序たれ。

いつも身なりはととのえて、だらしなくあってはならない。
綺麗を着飾れ!
物は持つな背負うな抱えるな!

何も無いという綺麗を覚れ。存在に無は無いと悟れ。
すべてが無くならなものは無いという「無」を覚れ。
それを心得るという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈らず行動すること

2019-01-08 | Weblog
祈る行為の姿というのは、ただじっとして一途に願う肉体の静止状態にある。
つまり、行動の伴わない姿。
どうだろう、死んだ姿というのは静止状態。祈ってばかりで動かなければ、
人生死を意味するということ。いけない行為ということがわかってくるはずだが。

物事というのは、動きが伴ってはじめて現れてくる。つまり、動かなければ
物事は進まないということ。だから、願い事があったら
先ずそれに向かって行動を起こすということである。どのように行動したら
願い事に一番早く到達できるのかという計画(行動)があってはじめて近づくもので、ただじっと祈っているだけの行為では、
けっして叶わない。他力本願というのは、自分が動かなくてもよいということではない。
他人任せにして叶うのならこれほど都合がよいものは無い。人生そんなに甘くないとみんな分かっているはず。
なのに皆一心に祈るのは、この道理がわかっていないからだろう。
老若男女
楽に何かを得られるほど人生甘くないと経験する。
安易に得をすれば、後々苦い思いをするということはよくあるものだと大抵は経験する。

世の中は、楽は苦の種であり苦は楽の種であるとも言われるように、苦楽は共である。
そんなことを踏まえて、祈る行為というのは良い行為ではない。いけない行為ということがわかってくる。
何かを叶えたければ、祈らずに行動していくことである。

皆神様に祈りを捧げるが、自分を生贄にしているようなものである。
悪神の洗脳に縛られた行為である。
善神は、一念岩をも通すと訓え、その頑なな精神による行動こそ
願い事の成就となると諭している。険しい道を行けと訓える。
偶者は誤解をして安易を取る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安寧紊乱にあれど・

2019-01-06 | Weblog
人工知能ロボットが活躍して、便利になっている世界の未来が見えてこない。
想像しても見えない。つまり、科学の進歩は悪魔の進化となって、一途に人類の破滅への進化となっているようだ。
人類の為にと開発されていった科学の道程は、利己的な欲望となって、ただ自らの首を絞める辿りとなっている。
もうどんなことをしても正されることは無い。それは、誤りに気が付くことができなくなっているためである。
エネルギーは自由の円運動であるために、繰り返すことによって同化していくために、
一切気が付くことができなくなってしまう。
地球は太陽の周りを約10万7千キロ/時、秒速約30キロ程で回っていて、
自転では約1700キロ/時、秒速約465㍍程で回っているという。
でも、地上にいる私たちは静止状態で、高速で回っていることすら感じない。
地球と一緒に回ているためである。これが同化である。
同化していれば、一切この高速の動きに気づかないのである。

人類の歴史は戦争である。いつの時代に於いても、また、地球のどの国に於いてもである。
お山の大将になりたがって、我一番としたがる。人の生命の哀しさである。
今なお争いは止まずに、どこかで争いは続いている。
争いはいけないと学んできたにもかかわらずに、何かと正当性を見つけて争っている。
時代が進んでも変わることがない。
科学が発達して、宇宙には地球人だけではないことも知れるようになってきた。
そして、今度は天空より舞い降りてくる生命体に対しての防衛という名目で
宇宙軍なるものを具えようとして身構えている。これも争いの想定である。
過去を見て未来を見ても人類の歴史は変わらないだろう。争いの為の進化となっていく。
しかしながら、今を思えば、先にある者(生命体)の想定はどうだろう。人類をはるかに凌ぎ、
争いという事柄を超えていて、宇宙のエネルギーの法則さえ理解していても不思議はない。
自由なるエネルギーの法則の正義を理解しているはずである。もし、
地球が防衛として身構えるのは、人類と同じように、まだエネルギーの法則の正義まで理解されないでいる
高等な生命体がいるのも想定できる。そのための防衛と捉えられるが、つまり、「何かとつけての正当性の争い」にあるとは
思えるか否か?

エネルギーが円運動の法則であるために、歴史は繰り返すと人類には当てはめることができる。
この同化に終止符を打つには、一旦という区切りが必要となる。
それが終わりの始まりである。新年が訪れるように、地上の変化が旧体制を葬り去る。
利己的なものの操りにある進化は、自ずと破滅への進化である。
どんなことをしてもこの破滅から人類は逃れることができない。そのために、
争いを超えている生命体は、どんなことをしても動かすことのできないエネルギーの自由を踏まえて、
生命エネルギーの無くならないとするための救済を説いて訓えた。それが、
死後の世界のための救済である。生命もエネルギー故の永遠であることを知らしめ、
死後の世界こそ生命の真実生きる世界であるために、その幸せを作るために、
心に恐怖、つまり悪をもたないように現在を生きることと訓えている。

人類は21世紀を超えることはできない。どんなに人工知能が発達しても、
現代科学技術の悪魔な進化によって滅亡していく運命にある。
すでにカウントダウンは始まっている。そのためのいろいろな災いが起こる。
見た目にはという偽の景色が疑念を持って映る。
自然の摂理、エネルギーの法則の自由であるために超えることはできないのである。
人類が、エネルギーの法則の自由を正しく知ることができなかったための誤りである。
しかし、恐れてはいけない。死後の世界こそ生命の世界なのであるから、
けっして恐怖を抱かず悪を思わず滅亡を受け入れることである。
昨今は安寧紊乱にあるけれども、心には安泰をもって現在を生きれば救済に適う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝敗

2019-01-05 | Weblog
同じ人間で優劣がある。
個性は特徴であり優劣はない。
大勢に適う見方をするために良し悪しの選別をするが、
個にしてこそ有意義であり大成となる。
勝負は個の中にあり、周囲に振り回されてはいけない。
自然と自分との駆け引きである。
それは、どう感じて流すかの裁量だ。
才力は、経験にして一を知り十を推し量る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安寧とする

2019-01-01 | Weblog
災害の年を超えて省みれば、
不正、圧力、改竄・・・、道徳の軽視、
災いは人の行いから起こり天災を招く。
人災を憂いて、秩序が正しくありますように切に願い、
安寧に思いをやる。その願いに優しさの行いをもって始めて効を奏す。
願いは念いにして行いあるのみ。
邪悪があればあるほど念いは強く混沌を意味する故、
「優」という行いあるのみ。もう一度言う、
安寧は、裏を返して混沌にある故の切実さ。
願わず念いにして行動である。
ただ優しさをもって。そうすれば、優れるにかわっていく。
おもいは転換の年となる。

自由は、自らに由るものである為に、
暗影にしてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする