つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

死への正しい思い

2019-01-29 | Weblog
恐れがあるのは、本来あってはならないからである。
あってはならないのが本来の在り方であるために悩む。
恐れが何から起こってくるのかを知るなら解決できていく。

すべての恐れは、死が原因である。
死が恐怖となっているために、死を理解することによって恐怖をなくすことができていく。
生命が死を絶対条件にしてあるために、生イコール死と考えていけば、
生命は死ぬために生まれてくることがわかってくる。つまり、死後の世界こそが
生命の真実の世界なのである。その世界を恐怖とすることないようにするために、生命は肉体を持って
この世で活動していく。生命には死が無いために、肉体の消滅後の世界こそが生命の本来の生きていく世界なのである。
その世界を幸福とするか不幸とするかを決めているのが、肉体をもって活動しているこの世の時なのである。
死というのは肉体の消滅という変化で、生命そのものの存在の明確さを得るためにあり、その存在が幸福なのか不幸なのかを決定していくための
在り方に過ぎず、生命そのものが無になる、すべてが無くなってしまうということではない。
変化していくことであり、そのために生命に希望があるのである。
生命は連綿である。
生き方が間違って死んで行っても、生命は輪廻していく。そうして生まれ変わった時に、
過去に気づき、今度こそ誤りのない生き方をしていくことができる機会を得ていく。
それはたやすいことではない。苦しいことだらけであるが、苦しみの中から喜びが生まれてくるのであるから、
このチャンスを活かして生きることである。
だから、肉体の死が生命の希望となっていくことでもある。
恐怖としていくか希望として行くかは自業自得である。
思いをポジティブに!

この世に於いて、私たちは無を正しく理解していない。
存在がすべてであり、無は存在の中にはない。
ただ変化していったものを無くなったとしているだけである。人の常識として、死が生命の無くなることであると
考えているために恐怖となってくる。初めから無になるなら生きる意味もなく、
生まれてくること事態に意味を持たなくなってしまう。
存在には意味があるために存在しているもので、意味のない存在というのは無い。
人の常識を取っ払って思い直してみることである。
死は、生命の無くなることではなく、恐怖となるものでもなく、また、生まれ変わって
誤りを正せる、無知を克服していくことのできる希望となるものであることを思うことである。

コメント
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