つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

三日見ぬ間の桜かな

2021-12-08 | Weblog
国を動かす人たちの目に余る行為が顕著となっている。
まぁ、どこもかしこも偽善、偽善、偽善、そんなニュースばかりが目に付く。

私達は、意識の存在である。意識は生命エネルギー、量子である。
そのエネルギーの法則は、円運動の自由となっているために、無くなることがない。
すべての存在がエネルギーの法則の下の存在である。
円運動となっているために、無くなることのない存在なのである。
円運動の変化が無くなることがなく常住であるために、その変化に対応した存在となっているのが
生命エネルギーであり、意識である。その意識は、物質的存在(肉体)を作り、そこに宿してのみ、意識の向上を図れる。
つまり、浄化することができる。だから、肉体が亡くなれば意識の向上は図れない。
意識は肉体が亡くなった時のままの記憶の現象世界となっていく。それがあの世である。
意識は、物質ではないために無くなるということがなく、変化しているだけである。
その変化は、すべて浄化への変化となっている。それは、法則が浄化の法則となっているためである。
ゼロから始まりゼロに戻る。すべてがきれいになるということの法則であるために、
人の行為もすべて浄化の行為となっている。
これを分からなければ、間違った浄化の行為となって、間違った世界が作られていく。
この間違った世界に気づいて、行為を改め、正しく法則に沿った浄化の行為としていくことが、生命エネルギー、
つまり意識の正しい意味である。
そのための人生である。この間違った世界を正すには、八つの正しい行いをしていくことである。
釈迦が説いた八正道である。簡単なことだが、一般にとても難しいことである。
自分の意識を正しく持つということは、簡単なようでとっても難しい。
だから、人生、自分を戒めて、みだらのことをしないことが修行となる。
やましいことを思わない、またしなければよいだけのことなのだが、欲を持つ自分の意識を正すことが最大の難関。
敵は我にあり、である。

私達は、長い間洗脳されて、それも苦しむことが当たり前として、
苦しみから喜びが生まれると体験して証明となって疑わない。そのような教育の中で生きてきた。
従うこと、何かに従属すること、隷属すること、ロボットのように感情を極力殺して、
奴隷のように働く事が幸せであるとされてきて、それを疑うことを恥じてきた。
そうして、長い間の年月が過ぎていった。苦しむことが地獄であることを忘れて、
世の中ががらりと変わることなど、奇跡に等しいと思わされて生きている。
まだ、命の長らえているとき、しばしのまどろみの中にいた時、
「世の中は三日見ぬ間の桜かな」を意識した。はて?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする