つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

環状体エネルギーの道理の感受

2018-09-01 | Weblog
あの人もこの人も、どんなに優れた人でも栄枯盛衰にあり、
泡沫にして朽ちるものである。
人生、花の一生に譬えられ、まさに短いものである。
栄光と挫折を味わい、哀しくも苦渋に満ち生きる。
悲喜交々至るも折し、哀調帯びる。
無常が故の身なれば、喜怒哀楽に翻弄されてただ漂う。
さて、
如何にして無常に身を置いているのですか?と自然に問うて、
自らに由るものとして自由を覚る。
自らに然り(しかあり)として、自由を悟る。
いま、ここに生きる命の現われは、吾が心の迷い、魔羅(摩羅)に由るものと戒め
戒律とする。

法然房源空を思い、愚禿親鸞に思いをやる。

俗世にありて、勤行に明け暮れるには、人里離れて山に籠る。
女難を避けるためと知る。女難を悟るということ。
それは、性を知るということである。
安住となる常住には、輪廻がさまたげである。輪廻は性交が元となるために、
女性を絶ってこそエネルギーである精神をみがくことができる。
そのために、「摩る」(さする)という文字をもって、
煩悩である垢をこすり落とすという意味で「みがく」として「摩」を充て、
心をみがくうたとして精神修行とするのである。
人生経験としていくのである。

縁である。還る、返ってくる、帰ってくる。円運動となっている道理である。

摩訶般若波羅蜜多心経という題目は、般若とは一般大衆を意味する文字。
一般の般と若干名の若、数をあらわす文字を用いて多くの人々を指している言葉である。
摩訶は、みがくうたである。波羅蜜多は、波のように揺れ動き、蜜蜂の蜜のようににぎっしり詰まった
多くの悩みが身動きの取れない状態(羅)を表している言葉である。
だから、悩める大衆の心をみがくうたという意味である。
ちゃんと漢字の意味をもって充てられている題目である。梵語の音写ではない。

エネルギーがトーラス(環状体状)であるために、その道理に由って得られる感受で、
読み解いていける。

般若心経は釈迦が語ったものではない。観自在菩薩が語ったものである。
釈迦は、修行の為、女性を排除するために山にこもった。どんなに頑健な精神をもっていても、
そばに女性がいたのでは気になり、修行の妨げとなっていくためである。
以って、観音と呼ばれる仏はすべて男性である。
慈は女の姿形として現れているもので、端的に言えば両性具有にして神仏である。
人間のように生殖はしない。

釈迦は、完全に神となった生命エネルギー。
宇宙のエネルギーシステムを知り尽くした生命エネルギー体である。
その訓え、八つの正しい道を歩みなさいと易しく訓えた。
難しく考えたのが人間である。
ただ八つの正しい行いをしていきなさいと訓えたのに、
信じないのが人の自由であるために、
ただその人に任せる。真実である。
コメント
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