つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

まちがって訳されている・・・

2005-09-28 | Weblog
 最近とくに時間の流れが早い。若さがなくなってきて、動作がとろくなってきたのだろうか?ん~っ、そうなんだろう。同じように動いているつもりなんだが・・・。

さて、人はよく、前世は他の動物だったとか、あるいは貝だったとか、石ころだったとか、わけの分からないことを言ったりする。これは、縁起を知らないためにそんなことを言うのだろう。
この世は縁であるために、人は人としての縁でなっているために、他の生き物や鉱物となることはない。人は人として転生する。縁であるために、行為によって縁がつくられ、場が決まる。
釈迦はこの縁起の法を説いた。釈迦が説いたから正しいのではなく、釈迦の説いたことが、釈迦の没した後、何百年もたってから、菩薩たちの啓示によって証明されたために、釈迦の説いたことが正しかったとなっているのである。

般若心経は、あの世から語られているのである。
人は経験を正しいとしていくために、人の経験とならないことは、理解できないのである。あの世は人の経験とならず、理解できない。その世界から語られたものであるために、理解することができず、間違って解釈してしまった。梵語で般若を智慧と訳すから、智慧であるとして、大いなる智慧の完成などと訳してしまい、わけがわからないものとなってしまっている。大いなる智慧とは何?
仏はすぐれた人だから、仏智であるとして、凡人には分からなくて当たり前であるとなっている。とくに最後に述べている「羯諦羯諦・・・」は理解できず、「いこう、いこう・・・」などとなって、真言であるとなって、無理に解釈することなくただ唱えていれば、ご利益があるとなってしまっている。
「ぎゃていぎゃてい・・・」は人々の感動の声を表している。
悩み多き人々の、悩み多き僧たちの最高の喜びの叫びを表しているのである。
「般若」の「般」は一般人の「般」で、普通の人を表していて、「若」は、人数を表している。若干名などと言う使い方をする「若」である。そのため、「般若」は、一般の人々を指しているのである。
「波羅蜜多」は、波のように揺れていて、蜜蜂の巣の蜜のようにびっしりと詰まった多くの苦悩を表していてる。「摩訶」は「みがくうた」と訳す。文字そのままである。そのために「摩訶般若波羅蜜多心経」は、「悩み多き人々の心を摩く訶の経」と訳せる。このように訳すことで、理解できていく。
文字を誤り無く理解してくれるようにと、般若心経の前に序文がつけられているのは、誤って説かれると、般若心経では、悟りが開かれなくなってしまい、啓示として語られているすべての経典が誤って解釈されてしまうためである。
つづきはまた・・・
コメント
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