つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正しくとらえること・・・

2005-09-17 | Weblog
自分が死んでも、自分は記憶の現象という実体で存在していく。実体である為に、自分が死んだと言うことが分からず、あの世であることも分からない。
死は他人の死となって、自分ではないとなっていくのである。
実際にそこに自分が倒れていても、それを空間より見ていても、それは自分ではなく他人となってしまうのである。肉体から離れた生命エネルギーは、即、記憶のエネルギーとして現象されていくために、生きている自分が現象されていき、倒れている自分を空間から眺めたとしても、それは自分ではないとなってしまう。倒れている自分の周りに、家族が来て悲しんでいても、それはその倒れている人の家族であって、自分の家族ではないとなってしまう。現象している自分が本当の自分で、現象している家族が本当の家族であるとなっていく。すべて現象が実体となっていくためである。 それは、 生命はエネルギーで、エネルギーはなくならないために、死がないのである。そのために、この世とあの世を転生しながら繰り返して存在していくのである。回る円の動きである。回る動きである為に、浄化する動きとなっている。何度転生して来てもこの世は苦しみである。この転生する繰り返しが、浄化となって、いつかの転生のときに、苦しみであることに気がついて、気がつくことが縁となり生き方が正されていき、悪である煩悩が浄化されて、二度と転生することの無い永遠の世界でいきていくことができる。いつの人生のときに気がついて苦しみである世界から解脱できるかが、自分しだいである自由をもっている。気がつくことが無ければ、縁とならず、救われることはなく、苦しみの世界を永遠に行き来する。
般若心経は簡潔に述べているのである。無を否定ととらえず、無くならないとしていくのである。無くならないとしていけば、苦しみが無くならないとなってしまうが、苦しみを滅していく方法も、智慧で得たものもなくならないために、救われていくとした判断をしていくのである。心経の文字に礙げられないようにすることである。  つづきはまた・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする