唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (65)九難義 (5) 聖教相違難 (5)

2016-08-09 22:49:10 | 『成唯識論』に学ぶ
学びましょう

  すみません、また横道にはずれます。愚痴を聞いてください。
 ある友人が入寺先の両親となかなか折り合いがつかずに悩んでいます。僕は人ごとのように返事をするのですが、本当は答えようがないのです。
 僕は自分の人生の方向性を試された、「おまえは死をかけているのか」と。それに応えることなく、すべての責任を他に振り替えていたのです。たぶん彼も同じような思いでいると思うのですね。
 僕の場合は、投げやりな生き様から、功利的に結婚をしました。でもね、一生懸命に尽くしたつもりなんですよ。結婚する前に、彼女の父が急性脳貧血で倒れられました。救急搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となられました。僕は夏休みで山陰の方に出向いていたのですが、電話がかかり急遽帰阪し、お通や、お葬式に参列しました。彼女には異母弟がおられ、僕の参列を良しとしない雰囲気があったのですね。とうとうお通やの席で罵声を浴びる羽目に陥りました。それから相続問題などでごたごたが続きましたが、なんとか相談に乗る中で円満解決をみたのです。ここまでは辛いこともありましたが、敵は外にいましたので、内では団結をしていたのですね。やがてこれが破綻することになります。
 僕は父との確執がありましたので、なかば強引に彼女と結婚をし、彼女の家で住むことになりました。僕はね、僕なりに先ほどもいいましたが、一生懸命に尽くしたつもりなんです。
 しかし、義理の母は僕の行動を認めることはありませんでした。もういやでいやで仕方ありませんでしたので、夜な夜な夜の街に出かけることになります。なにも好き好んで出かけるのではないのですから、でかけても面白くないんですね。でも止めれないんです。外がよく見えるんですね。こうなれば自分のことは全く見えず、湯水のごとく金を使い、銀行に借金があっても、それ以上に金を工面して遊び呆けていました。すぐに破綻しましたが。(これが家を放り出され、父に勘当された原因です。)
 依り所が見えない無明ですね。生きることの意味が全く分からない。無明ということが分からない。「そんなことをしとったらあかんやろ。眼を覚ませ。」とはよく言われましたが、「何故あかんのや」と反発するだけでしたね。
 やがて破綻し、悶々とする中で仏教に出遇ったんです。仏教には触れてはいたんですよ。でも何も聞こえてはいなかったんです。倫理にもならなかったですね。何故仏教を学んだのか。仏教が後の自分の姿を見越したんですかね。仏陀は「遍智」と云われていますが、お見通しだったんですね。
 すべての御縁のつながりの中で生かされているのが分からんのか、という声が聞こえたんですね。「え」っというわけです。自分が自分の思いで生きることが間違い?そんな馬鹿な、ということがあったのですが、なぜか「ほっと」しましたね。
 何故、こんなことを語っているかといいますと、一人でも仏法に触れて、「よりそい」の実践をしてもらいたいからなんです。傲慢な言い方になると思います。傲慢であっても、僕の人生の中で、「御縁のなかで生かされいる身に気づけ」と身を持って教えてくださった方は皆無でしたが、いらっしゃいました。
 蓬茨先生が「仏法を学んだことが、いつか役に立つ時が来る」と教えてくださいました。僕の退転の人生の歩みの中で、菩薩が共に歩んでいてくださっている、なんと愚かな生き方をしていたんだなと思うことですが、愚かな生き方が仏法に出遇えるご縁になったんですね。そしてこれからもずっと愚かな生き方をしていくんでしょうね。
 仏教は何を伝えてきたのか。僕は教学・教相は大切なことなんですが、「私の生き様を見よ」という「寄り添い」の重要性を教えているんだと思うのです。
 こんな自分でも、生き得るに値するんだと。そしてご縁の中で生かされているんだと。
 自分の思いの中で生きてきとことが、
 癌を宣告されたことが、
 人間関係のやるせなさが、
 本当に生きることの大切さを知らせるご縁であったと伝えていかなければならない、伝えてほしいと思うのです。それが「寄り添い」の原点なのではないでしょうか。
 僕は、たまたま蓬茨先生に出遇い、訓覇先生に出遇えたということが僕の大きな財産になっていますし、今も、聞成坊の前田先生、講義に見えておられます高柳先生など、僕の生き様を許してくださっていることに多大なる感謝の気持ちで一杯です。
 僕は、僕一人だけで終わるのではなく、連続無窮のいのちの連鎖の中で、生きることの意味を伝えてもらいたい、その為に煩瑣な教学を学んでいるんだと思います。
 諸行無常 
 諸法無我
 涅槃寂静
 は真理です。仏陀釈尊は真理を明らかにされました。
 にもかかわらず、私たちは何故迷うのでしょう。私が求めているのは寂静です。しかし生活の状態は真逆です、何故なんでしょう。ここには人間の複雑な心理が入り混じっています。そのことをきちっと紐解いてくださっているのが唯識教学なんですね。この唯識の教学が基底となって浄土教が花を咲かせているんだと思います。
 真理は三宝印で現されていますように、空性です。空性 - 唯識 - 空性 - 浄土教 - 浄土真宗
 「親鸞一人(私)がためなりけり」という告白は、私が目覚めることを待って、どれほどの多くの方々が働いてくださっていることへの頷きだと思うのですね。
 僕はね、一人の動きが宇宙を動かす原動力になるといっても過言ではないと思うのですね。
 唯識でいう、阿頼耶識の果相、異熟は、私の所まで届いたいのちの願い、それを聞けということなんだと領解しています。