唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (66)九難義 (6) 聖教相違難 (6)

2016-08-11 22:50:46 | 『成唯識論』に学ぶ


 聖教相違(ショウキョウソウイ)の難を読んでいます。
 聖教相違の難は、唯識無境という、若し心外に色等の実の対象が無いと云うのであれば、世尊は何に縁って聖教の中に色等の十二処有りと説かれたのか?という批難です。まぁ、ずっと読んでいますように、識所変に依って説かれたのであるということなのです。それとですね、十二処を説かれたのは我空に入らしめる為であると。ここには隠された意味が有ります。
 少し考えて頂きたいのですが、「考える」根拠はどこにありますか?という問いが与えられているようです。考えるというのは意志作用ですが、意志作用は言葉の概念化から生まれてきます。そして言葉はどこから生まれてくるのか、それは受という感受作用から生まれてくるのですね。私たちの意識作用の元には感受作用が働いています。苦しい・憂いを感ずる。楽しい・喜びを感ずるという表現は言語を持って意識化されるわけです。
 阿頼耶識は無覆無記だと云われていますから、感受作用も無記なのです。つまり意識上では純粋意識、混じりっ気がない、分別しないという、こういう意識も私たちは持ち合わせているのですね。
 八識全体に遍行の心所は働いておりますが、阿頼耶識と倶に働く遍行は無記である。第七末那識と倶に働く遍行は不善と有覆無記、そして第六意識はすべての心所と倶に働くといわれています。
 触
 作意  触・作意が因
 ――
 受
 想   }が果
 思
 触と種子が関係してきます。そして種子は現行と関係してきます。つまり、所依の問題ですね。私たちは何かを依り所として生きているわけです。有漏でいいますと、名聞・利養・勝他ですね。自己を要として生きようとする在り方になりますね。もう一つは、自己を問う在り方ですね。
 それはさておいて、現実はどうでしょうか。分別を起して苦・憂・楽・喜と無記の波動の中で蠢いているのではないでしょうか。何故?なんでしょう。
 本科段の論題は、世尊が十二処という、眼処に対して色処という二分化ですね。外界実有と説かれておられるのは、実は、外界実有ではなく、私の心が対象を捉える在り方が外界実有として捉えている、この捉え方を縁として(方便として、と云ってもいいように思います。)外にものがあるのではなく、外の世界も私の心が捉えたものであるということを教えられているのですね。
 ここで、理ではなく事の方面から少し考えたいと思います。
 今の話題でいいますと、オリンピックですね。これは明るい話題です。暗い話題ですと、障害者施設での無差別殺人です。一応どちらも外界に起こっている出来事だとしておきます。
 これらのことは、私と関係していることは何となくわかりますね。オリンピック日本勢頑張っているなと思いますし、無差別殺人、とんでもないことをしたものだ、有無を言わさず極刑だと。私と関係しながら、自他分別を起しているわけです。これはね、自己中心的見方です。
 世尊は、これらのことを通して無我に触れよと説かれたんですからね。
 今日は夕刻友と珈琲を頂いていたのですが、ふと感じたんです。友には、「僕の為に、汗を流してくれている、苦しんでいてくれる、喜んでいてくれる人がいる。そして大事なことは、僕の為に殺人を犯した人がいる。」と話しました。
 ものすごく誤解を与えますが、唯識無境とはこういうことなんですね。すべては対岸の出来事ではないということなんです。たまたま僕は人を殺めないと云う縁を頂いていないだけに過ぎません。そして御縁として、人を殺めてはいけないんだ、それは重罪だあるという痛みを感ずるわけです。この痛みを彼は僕に教えたというところに、僕は彼と繋がるのです。繋は繋縛、「つながりしばられる」という意味ですが、自他を分けないということです。
 私たちは、つながりを生きるといいつつ、つながりを切って生きています。私という存在は全宇宙という広大無辺際とつながりながら、しばられている、切っても切り離せない関係性を生かされているのですね。
 すべては私の心の内景であると知るべきです。外景であるとしますと必ず差別が起こります。差別が犯罪を引き起こす要因であり、差別は私が起こしたものなのです。差別は、未造と已造の間(僕は中有の思想は未造から已造に至る間の出来事であると捉えた方がいいと思うのですが)に起こる煩悩に縁って生起するのです。煩悩は自己中心性ですから、自分の思いが通らないと何をするのかわかりません。業縁存在とはこういうことなんでしょうか。
 内村選手の鉄棒の演技にはしびれました。まさに神の領域だなと思ったことですが、内村選手を通して、「すごい」という思いが自分の心の表現として出てきている。愛ちゃん、すごく頑張ったけれど、残念だったなという悔しい思いは共有できるわけでしょう。共有できる心、すごいと思える心。絶対に有ってはならないという慚愧の心が働いてくるのは、外界に実在すると思われることを通して、無我の心に触れよという促しなんだと思いますね。
 一応ここで第三の聖教相違の難を閉じます。次回は第四の唯識成空(ユイシキジョウクウ)の難について考えたいと思います。
 『唯識二十論』は引き続き折を見ながら読めればと思っています。