唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (70)九難義 (10) 唯識成空の難 (3)

2016-08-18 22:11:00 | 『成唯識論』に学ぶ


  『二十論』も第九頌までみていきましたが、第十頌から第十四頌の五頌は唯識無境を直接的に論証しようとする、『二十論』の中でももっとも大事な箇所になります。直接的にと云うのは、五識の対象である五境そのものが外界に実存在しないことを論証しようとすることになります。
 『二十論』の主題は、無境の論証なのです。第九頌までは、仏陀が蘊・処・界を説かれたのは、愚夫をして二無我に入れしめんが為であることが説かれました。しかしそれは外界実在論者の問いに直接的に答えられたのではありません。
 外界に物質的なものは存在しないことを論証しないと、唯識無境の論証にはならないのです。
 世親は(1)総論 (2)現量 (3)比量の三つに分けて理論的証明をしています。
 外界実在論者は問います。
 「復た、云何ぞ仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。」
 (また、仏陀は以上のような密意趣に依って色形などの処が実在すると説いたとしても、どうして識とは別に外界に実在としての色形などのものが有って、それらが色形などの識の各別の対境とならないのであろうか?)

 (反論)「しかし、君の言うような意味で世尊が色形などの諸部門の存在を説いてのであって、決して、(色形などの諸部門が外界に)実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということはどうして知りうるのか」

 答えが、第十頌になります。(なかなかややこしい問題です。ぼちぼち解明できたらいいかなと思います。)

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 「此の識若し無くんば便ち俗諦無くなんぬ。俗諦無きが故に真諦も亦た無くなんぬ。真・俗とは相依にして而も建立するが故に。」(『論』第七・二十二左)
 (この唯識がもしなかったならば、俗諦もないことになる。俗諦がないならば真諦もないであろう。何故ならば、真諦と俗諦は相依相成のものであるからである。)
 前段からの意味になりますと、反論に対しての答えは、所執の我法は遍計所執の法であって、識変の見相二分の上に妄執する実有の我法を否定するのであって、識そのものを否定するのではない。識は依他起の法体ですから、この法体を否定してしまえば、俗諦も無くなってしまうのです。俗諦と真諦は相依相成の関係にありますから、真諦も無くなるという過失に陥ることになります。
俗諦・真諦の二諦を撥無しますと、悪取空(アクシュクウ)に堕すことになります。
 悪取空とは、空の誤解です。すべては虚無であるという理解です。虚無論者と云ってもいいでしょう。世俗諦と勝義諦(真諦)の二つの諦の存在を否定することです。「二諦を撥無す、是れ悪取空なり」
 その反対が善取空です。空を正しく理解することです。つまり、空とは「ここ」において「かれ」が無いとき、「かれ」は「ここ」において空であり、「ここ」において余の残れるものは有ると、このように空性を正しく理解することが中道にかなうことになります。

 「二諦を撥無するは是れ悪取空なり。諸仏説きて不可治者と為す。知るべし、諸法は空と不空と有り、此れに由って慈尊前の二頌(『中辺分別論』)を説きたまえり。」(『論』第七・二十二左)
 「述して曰く、若し識(俗)及び性(真)を撥無せば、即ち二諦を撥無するなり。仏は説いて不可治者と為す。生死に沈淪(チンリン)す。病根は深きが故に。即ち清弁等なり。応に知るべし、諸法は遍計所執の無なるが故に空は有り。依他、円成(エンジョウ)は有なるが故に、不空は有り。故に弥勒は前の二頌を説くなり。即ち前の中辺の頌なり。二十唯識の義も此に同なり。」(『述記』第七末・二十九左)
 七地沈空の難という、菩薩の陥りやすい(聞法の落とし穴)関門ですね。そこを指摘しています。
 すべては縁起において有るわけです。私たちの生きている世界は有為の世界ですから転変するわけです。その転変が何において転変するのかということが問題になります。勿論縁起においてなのですが、縁起は種子を問題にしています。種子生現行、(生)、( )に衆縁が関わってきます。種子が警覚されるわけですから、縁は流れに過ぎないのですね。縁に依って動くのは間違いのないことではありますが、触が縁になるわけでしょうね。いつでも、どこでも、いかなる時でも、何かに触れている、触れることにおいて意識の動きがあるわけです。そんな意識の水面下で種子が即発(警覚)されるわけですね。つまり頭をもたげてくるのです、それを現行と、現在するという意味ですね。
 ですからね、空というと何もないように思いがちなのですが、そうではないのです。止まっていない、常に動いているというのが空という言葉が指し示している意味なのです。
 問題は種子です。ここは私と密接に関係します。一言一句です。有為の世界の中で無為に触れるのか、それとも有為の世界の中で有為有漏の煩悩中心の生き方をするのか、どうかが問われつづけられているのですね。
 しかも厄介なのが、それが見えないということなのです。煩悩中心が見えたら大変なんですよ。見えないからのうのうと暮らしていけるのですね。見えない方が幸せかもしれません。しかし、このような生き方は阿頼耶識が涙するのですね。仏意量り難しですが、如来の痛みではないでしょうか。
 叔母の死、父の死など、幾多の臨終に立ち会いましたが、いつも一粒の涙が忘れられないのです。一粒の涙、僕への遺言なのでしょうね。
 
 「今日もまた、煩悩と仲良し。煩悩が背中を押してくれる。ごめんね、ありがとう。僕の知らなところで今日も貴方を傷つけている。僕がくしゃみをすると、貴方は風邪をひく。僕は貴方が僕の為に生きてくださっていることを知らない。いつも私の世界でしか生きれない、死ぬまでつづくことであろう。でも、「僕の世界でしか生きれない」ことを教えられた。天狗の鼻が折れた瞬間である。」