唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (77)九難義 (17) 唯識成空の難 (10)

2016-08-30 23:10:17 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 破我についての『成唯識論』の所論は28日のブログを参考にしてください。
 数論の我論について、
 『倶舎論』(大正29.157b~157c)の所論は、(お願いします。サンスクリット訳教えてください。)
 「如應當知。有作是言。決定有我。事用必待事用者故。謂諸事用待事用者。如天授行必待天授。行是事用。天授名者。如是識等所有事用。必待所依能了等者。今應詰彼。天授謂何。若是實我此如先破。若假士夫體非一物。於諸行相續假立此名故。如天授能行識能了亦爾。依何理説天授能行。謂於刹那生滅諸行不異相續立天授名。愚夫於中執爲一體。爲自相續異處生因。異處生名行。因即名行者。依此理説天授能行。如焔及聲異處相續。世依此説焔聲 能行。如是天授身能爲識因故。世間亦謂天授能了。然諸聖者爲順世間言説理故。亦作是説。經説諸識能了所縁。識於所縁爲何所作。都無所作但以境生。如果酬因。雖無所作而似因起説名酬因。如是識生雖無所作而似境故説名了境。如何似境。謂帶彼相。是故諸識雖亦託根生不名了根。但名爲了境。或識於境相續生時。前識爲因引後識起説識能了亦無有失。世間於因説作者故。如世間説鍾鼓能鳴。或如燈能行識能了亦爾。爲依何理説燈能行。焔相續中假立燈號。燈於異處相續生時。説爲燈行。無別行者。如是心相續假立識名。於異境生時説名能了。或如色有色生色住。此中無別有生住者。説識能了理亦應然。若後識生從識非我。何縁從識不恒似前。及不定次生如芽莖葉等。有爲皆有住異相故。謂諸有爲自性法爾微細相續後必異前。若異此者縱意入定。身心相續相似而生。後念與初無差別故。不應最後念自然從定出。諸心相續亦有定次。若此心次彼心應生。 於此心後彼必生故。」
 概要を述べますと、
 数論の主張は、「決定有我」、我は定んで実在するのである。つまり、「謂諸事用待事用者。如天授行必待天授」。事用(ジユウ・はたらき)は事用者を待つように、天授(テンジュ・天から授かったもの)の行は天授を待つようなものである。このように、「識等所有事用。必待所依能了等者」。識等の事用は必ず所依の能了等の者を待つのである。論主は反詰する。「天授謂何」。天授とは何か?若し実我であるなら、前に論破した通りである。若し仮我であるなら、体は一物ではない。、諸行の相続に於いて仮に我を名づけたのである。天授の能行とは、刹那生滅の諸行が相続する上に天授の名を立てたのであって、愚夫はこれを執して実我と為し、相続の異処に生ずる因とする。異処に生ずるを行と名づけ、その因を行者と名づける。即ち前念を行者とし、後念を行とする。この理に依って天授よく行ずと云う。焔及び聲の異処に相続するのを、世に焔聲よく行ずというようなことである。
 (数論の問)「諸識能了所縁」(『中阿含経』)。諸識能く所縁を了すと説く。識は所縁に於いて何の所作を為すのか?
 (論主の答)「都無所作但以境生」。何も所作は無い、ただ境に似て生ずるのである。これを境を了すと説くのである。つまり、境に似るとは彼影像を帯することである。或は識の能了は喩ば燈の能行のようなものである。焔の相続の中に仮って燈の名を立てるように、燈の異処に相続して生ずるを燈行を名づけ、別の行者はないのである。このように心の相続に仮に識の名を立てるのであり、異境に相続して生ずる時を能了と名づける。別の了者はない。
 (数論の問)後識の性ずることは前識に依る、我に依らないというのであれば、なぜ後識は恒に前に似ないのか?又、芽莖葉等のように定次に生じないのか?
 (論主の答)有為法は皆住異相に依って後必ず前に異なって生ずるのである。又諸心の定次生は、もし此心の次に彼心生ずべきは、此心の後に彼必ず生ずる、と云うことである。

 本題は物資の否定に論点があるのですが、アートマンの実在を説く外道を論破しなければ大乗仏教は成立しませんので煩瑣ではありますが少し綴っております。物質の否定は諸部の実有をも論破します。
 明日は勝論の我論について考えます。