唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (45)九難義 (25) 唯識所因 (23) 理証

2016-07-04 23:17:02 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 『弁中辺論』の世親菩薩の注釈から弥勒菩薩の頌を読み解けたらと思います。
 「頌曰 虚妄分別有 於此二都無 此中唯有空 於彼亦有此論曰。虚妄分別有者。謂有所取能取分別。於此二都無者。謂即於此虚妄分別。永無所取能取二性。此中唯有空者。謂虚妄分別中。但有離所取及能取空性。於彼亦有此者。謂即於彼二空性中。亦但有此虚妄分別。若於此非有。由彼觀爲空。所餘非無故。如實知爲有。若如是者則能無倒顯示空相。復次頌曰 故説一切法 非空非不空 有無及有故 是則契中道。」
 論曰。一切法者。謂諸有爲及無爲法。虚妄分別名有爲。二取空性名無爲。依前理故説此一切法非空非不空。由有空性虚妄分別故説非空。由無所取能取性故説非不空。有故者。謂有空性虚妄分別故。無故者。謂無所取能取二性故。及有故者。謂虚妄分別中有空性故。及空性中有虚妄分別故。是則契中道者。謂一切法非一向空。亦非一向不空。如是理趣妙契中道。亦善符順般若等經説一切法非空非有。如是已顯虚妄分別有相無相。」(世親造、玄奘訳『弁中辺論』大正31・46b)
 「虚妄分別は有り」
 理から云えば遍計所執性です。外境有りとする見方ですから、本質からいえば無いわけです。しかし、外境に似て現ずる識はあるのです。現実に私たちは、見る(認識する)私と、見られるもの(認識されるもの)とを別けて認識を起こしています。これが迷いであるのです。迷えばあらぬ方向に歩を進めることになります。それが迷妄、迷闇なのです。しかし、迷妄等は如来の物差しです。私が迷妄しているということは無いのです。迷妄していないという思いが迷妄していることになるんですね。
 「所取能取の分別有り」と。所取(客体)と能取(主客)に分かれて分別するわけですから、遍計所執なんですが遍計所執もまた依他起であるというのが護法菩薩の主張になります。
 現実からの鋭い視点ですね。現実に起こっていることは依他起なんです。依他起をはずせば現実は起こり得ません。ですから、この点を押さえて「有」と云われるのです。「有」は因縁生ですね。
 そしてですね、因縁生を押さえて、「二は都て無し」と。迷いを媒介として迷いを超える世界を指し示しているのですね。この媒介の役割を担っているのが善知識、「よきひとのおおせ」だと思います。
 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(『歎異抄』真聖p627)
 信心は自分の手柄ではないんですね。ややもすれば、自分の手柄のように錯覚されますが、やっぱり賜ったものなんです。賜ったというのは、元に帰ったということでしょう。元の道をを踏み外していたものが、元の道に戻されたということではないですかね。それはね、元の道があったということでしょう。元の道が光(智慧)として呼び戻すわけです。そのご縁をいただくのが「よきひとのおおせ」になるのではないでしょうか。
 外していたら、何が起こるのかというと分別ですね。自己中心にならざるを得ないのです。末那識といえども、勝手に末那識が起こるわけではなく、起こるには起こるだけの理由があるのですね。末那識が顔をだしているのは、道を踏み外しているでというSOSですね。
 でもね、SOSが聞こえません。、ものすごく難しい事なんです。己を無にしないと聞こえません。聞こえたら「二都て無し」になるのです。
 又にします。おやすみなさい。