唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (53)九難義 (33) 世事乖宗難 (1)

2016-07-22 23:48:16 | 『成唯識論』に学ぶ


九難義は、一切不離識に対する疑問、質問が問いとして出され、それに答えているわけですが、第二番目は、一切不離識に対する外境からの非難です。「外境実有論」・「外境実在論」からの批判に答えているのです。
 また、「外境実有論」・「外境実在論」を真正面から批判をし、其の主題としているのが『唯識二十論』になります。
 外界は自分の心の影であって、自分が思うような外界は存在しないというのが、「唯識無境」と表現しているのですが、ここに誤解が生じてきます。「無境」といいますから、対象物は無いのか、そんな馬鹿なことはないであろう。山があり、川があり、目の前に黒板があるではないか、それをどうして無いと言い切れるのかという疑問ですね。
 この時期ほんまに酷暑で、すごく疲れます。疲れて仕事帰りのビールの美味しいこと、言葉には出せませんが、アルコールの駄目な人にとっては荒唐無稽のことですね。つまり、ビールという実体はないのです。また同じビール党にしても、同じ味でいただいているのかというと、そうではありませんね。個人的にもそうです。暑い日と寒い日とでは味が違います。そしたら、どれがビールの味なのでしょう。このように、感じられるものは自分の味わいなんですね。
 人人唯識と云われますが、お一人お一人の世界観なのです。自分が作り出した影像を、あたかも実像であるかのように思い込んでいるだけなのです。
 ここが世間と出世間の考え方の違いと云うのでしょうか、ものの捉え方が相違するのです。
 第二の難が「世言乖宗(セジカイシュウ)の難」と云われていることです。
 唯識無境を説いているのですが、外界を認識するのは、内識のみであって、外境に似て現じて心の外に実の境は無いと云うのですが、ここで問題が提起されてきます。 
 
 「若し唯内識のみにして外境に似って起こると云はば、
   (問)寧ぞ世間の情と非情との物を見るに、処と時と身と用との定・不定に転ずるや。
   (答)夢境等と如しと云って此の疑を釈すべし。」

 私たちの物の見方からすれば、「処と時と身と用」は実有ではないのかと疑問です。
 (1)処とは場所です。山河等ですが、山河等の外界は必ず一定の場所があって、他の場所では見られない。このことは即ち実有ではないのかという問いです。
 時とは時間ですが、花の種を蒔、やがて芽がでて、花が咲く、これは一定の時間に於いて成り立っているのではないのか。ということは時間は実有である。
 (2)この処と時について、若し能縁の識から変現する(我が心の影像)ものであれば、処を定めず、時を定めずに認識は成り立つのではないのかということですね。
 (3)身とはここでは有情を指しますが、同一の境を多くの人間が同一に認識するのは所縁の境体が実有であるからではないのか、という問いです。これから海水浴のシーズンですが、私の心を離れて海は存在する、きわめて常識ですね。これがどうして無境といえるのか、です。
 (4)用(ユウ)働きです。存在の働きですが、講義の時に白板があり、マーカーがあります。マーカーは字を書くためのものです。字を書くためのマーカーは存在するでしょう。無かったら書けないですね。マーカーも心の影だとすると、心で字が書けるという事になります。マーカーにはマーカー独自の用があるではないか、とね。
 こういう問いかけですね。
 皆さんも考えてみてください。どのように答えられるのでしょうか。やっぱり外界実在論を認められますか。