唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

七月度 『成唯識論』に学ぶ。 「仏教の時間論」 テキスト (4) 補足

2016-07-13 23:42:05 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 
 補足です。
 「如是因果理趣顕然遠離二辺契会中道諸有智者応順修学」の解釈について、『述記』には、三種三世を説いています。
 道理三世、種子曾当(シュウジゾウトウ)の因果ともいい、現在の法の上に道理をもって三世を仮立して説かれます。
 神通三世、過去・未来は実体あるに非ざるも、宿命智(宿命通)にて過去を、生死智(天眼通)にて未来を、他心智にて現在の境地を観る(他心智は外界に有る他者の心を直接に智るのではなく、他者の心に似た相で有る影像を認識すること)。神通力に依る見方ですが、所縁の相分の上の三世を説いているのです。
 唯識三世、過去・未来の法は、実体あるに非ず、妄情にて過去・未来の事物が心中に顕現する。ゆえに妄情に三世あるも実は現在法の相分にて、唯識所変であるとする。
「諸經論説雖多不同。總束而言莫過三種 一道理三世。即依種子曾・當義。説有去・來世。當有名未來。曾有名過去。現有名現在。於現法上義説三故 二依神通。其智生時法爾皆有如此功力。由異生・聖者功能各殊。既非妄心所見皆實。但由智力。非是妄識之所變也。前第二説。由澄淨故亦現彼影。由多修習此去・來法。法爾能現隨其勢分多少時節。理實能縁。及所縁法唯在現在 三依唯識。此義雖通。然前二外別有異體。多分分別妄心所變。似去・來相。實唯現在。」(『述記第三末・五十五右。大正43・339c)
 (諸の経論の説、多にして不同なりと雖も、総じて束(ツカ)ねて言はば、三種に過ぎること莫し。
 一に道理の三世。即ち種子の曾(ゾウ)・當(トウ)の義に依って、去・来世有りと説くなり。當有をを未来と名づけ、曾有を過去と名づけ、現有を現在と名づく。現の法の上に於て義をもって三を説くが故に。
 二に神通に依りて、その智の生ずる時に法爾に皆な此の如きの功力有り。聖者の功能各殊なるに由る。既に妄心に非ず。所見は皆な実なり。但だ智力に由って是れ妄識の所変に非ざるなり。前の第二に説く澄浄なるに由るが故に。亦彼の影を現ずと。多く修習せんに由りて、此の去・来の法は、法爾に能く現ず。その勢力に随って多少の時節あり。理実を以ては能縁と及び所縁の法は唯だ現在のみに在り。
 三には唯識に依る。此の義は前の二に通ぜりと雖も、然も前の二より外に別に異体有り。多分、分別の妄心が所変なり。去・来に似る相なれども、実にはただ現在なり。)
 唯識三世は、前の二の三世にも通じて言えるのですが、道理三世は種子の曾(ゾウ)・當(トウ)の義に依って説かれたものである、神通三世は通力に依る等の別義から説かれたものなのです。
 普通の三世観は妄識所変(遍計所執性)の相分の上の三世です、つまり、私が考えたもの、現在の意識が考えた過去・現在・未来です。考えられたものは実有ではありません。例えば、考えられた火は熱くありません。厳しく言うと、考えられた仏教は内道ではなく、仏教に似た外道になりますね。仏教はどこまでも内観の法です。

 「謂く此の正理は深妙にして言を離れたり。因果等の言は皆仮て施設せり。」(『論』第三・九左)
 大乗縁起の正理が述べられます。先ず宗を顕します。離言であると。一つの感覚ですね。「こういうことだったんだ」という頷きでしょうね。言葉は仮に指し示されたものである。
 「現在の法後を引く用有るを観じて、仮に当果を立てて対して現の因と時、現在の法前に酬る相に有るを、仮に曾の因を立てて対して現果を引く。」
 現在のものが未来の果を引くはたらきが有るのを観察して、仮にその果を未来といい、その未来をうみだす現在を因とする。また現在の法が前の相の影響を受けている所から、仮に過去を因として、それに対して現在を果とする。(道理三世)
 「仮と云うは謂く現識彼に似て相を現ずるなり。」
 現在の識が過去・未来に類似して相を現ずることを、唯識三世といいます。私の心の中に過去・未来を作っているのですね。