唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (57)九難義 (37) 世事乖宗難 (5)

2016-07-30 20:40:33 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 世親の答え
 「皆成ぜざるに非ず。頌に曰く。
 処と時の定まれる夢の如し。身の不定なるは鬼の同じく膿河等を見るが如し。夢にて損ずるに用有るが如し。(第二頌)
 論じて曰く、
 (夢の如し)とは、意の説くは、夢にて見る所の如しなり。謂く、夢の中には実の境は無きと雖も、而も或は有る処には村・園・男・女等の物有りと見るも、一切処には非ず、即ち是の処に於いて或る時には彼の村・園等を見るも、一切時には非ざるが如し。これに由って、識を離れて実の境は無きと雖も、而も処と時との定まれるは成ずることを得ざるに非ず。
 (鬼の如し)の言を説くは、餓鬼の如しと顕すなり。河の中に膿が満つるが故に膿河と名づく。酥瓶(ソビョウ)は其の中に酥が満つるを説くがごとし。謂く、餓鬼の同じき業の異熟たる多くの身は共に集まりて皆膿河を見、此の中に於いて定めて唯だ一のみが見るに非ざるが如し。
 (等)の言は、或は糞等を見る、及び有情が刀杖を執持して遮捍(シャカン)・守護して食することを得せしめざるを見るを顕示す。此れに由って、識を離れて実の境無しと雖も、而も多くの相続の不定の義は成ず。
 又、夢の中の境は実に無しと雖も、而も精血を損失する等の用有るが如し。此れに由って、識を離れて実の境無しと雖も、而も虚妄の作用の義成ずること有り。
 是の如く、且らく別々の譬喩に依りて、処の定まれる等の四義の成ずるを得ることを顕す。」

 酥瓶(ソビョウ) - 膿河との合成語。膿河とは膿に満ちた河のことで、液化バターに満ちた瓶のことを合成語として酥瓶と言うようなものである。

 世親は夢や餓鬼の喩をもって答えていきます。
 すべて成立しないことはない。それを頌として語る。
 「場所と時間が決定していることは夢のようなものである。
 特定の人に限定されないことは、餓鬼たちが同じ膿河をみるようなものである。効用があることは夢の中で過ちをなすような、ものである。」(第二頌)
 頌を論じて言う。
 「夢と同じように」というのは、
 夢におけるようにということである。どのようにしてなのか。夢の中では実在する対象はないけれども、すべての場所にではなく、ある特定の場所にだけ、村、園、女、男などというものが見られる。
 しかし、その場所においても、いつでも見られるというのではなく、あるときだけに見られる。だから、識とは別に実有の対象が外界に実在しなくても、空間的、時間的限定はありうるのである。
 (また、特定の人に限定されないことは)餓鬼たちによってのようにということである。
 河の中に膿が満ちているから、膿河と名づける。その瓶の中に酥(牛乳から作ったヨーグルト)が満ちているから酥瓶と呼ぶようなものである。つまり、餓鬼たちは、前世で行った(悪の)行為の結果として、同じ餓鬼という異熟を引果し、同じ餓鬼となった者たちは共に集まると、膿がありもしない河を膿に満ちた河だと見てしまうのであつて、ひとりだけがみ見るのではない。
 「等」と言うことは、
 河が膿に満ちているのと同じように、尿や汚物などで満ちていたり、こん棒や刀(剣)を持った守衛たちによって監視されていたりして食べさせないようにするのを見ることを顕している。
 このことによって、識とは別に実有の対象が実在しなくても、ひとりの心に限って起こるのではないということが分かるのである。多くの心相続に限定されないということは成り立つのである。
 (効用をはたすのは、夢の中の過ちのように)、
 夢の中の対象は実にないけれども、夢の中で、実際に性交することはないのに精子を漏出という形の過ちがあるように、このうように、識とは別に実有の対象がなくても、虚妄な効用の成り立つことがある。
 外界実在論者の批難という、空間的、時間的限定をはじめとする四種の問題は、それぞれの比喩を通して証明されるのである。
  (つづく)