随煩悩の概略 partⅡ 小随煩悩の「誑諂與害憍」について
「誑」(オウ―たぶらかす)
『述記』には、誑と云う心は、「自ら徳無きを偽って徳有りと詐す。」と。 詐はいつわる、あざむく、だますという虚言です。何故起こるのかと言いますと「利誉を貪するが故に。」といわれているのです。自分の利益と栄誉を貪る、つまり利誉を獲るために偽って自分には徳が有るのだというような顔をするのですね。要するに人々を欺いているわけです。「邪命を依と為す」 間違った生き方ですから邪命といいます。そのような生き方を依り処としているのですね。『論』には「利誉を獲んが為に矯しく(かたましく)徳有りと詭詐(きさ)するを以って性と為し。能く不誑を障えて邪命なるを以って業と為す。」といわれています。「あるがままの人生をあるがままに生きればいい」のですがそれができない自分がいるのです。「私はわたしになればいい」のです。それが道理なのですが、それに背いていろいろなものを身につけて自分を大きく見せようとしています。それもですね。できるだけ人の上に立ちたいからです。自分に自信をもてないのです。ですからいろいろな物を着飾って武装するのです。曽我先生は信心を「自信力」とお教えくださいましたが、その自信力がもてないのですね。何故かといいますと世間の富と栄誉に目が眩むのです。それが絶対の価値だと思い込むのですね。これが顛倒といわれることなのです。裸で生まれてきたのですから裸で生きればいいのです。ありのままの人生とはそのようなことなのではないでしょうか。それがなかなかできないのですね。自分をよく見せたいんです。これが「誑」ということです。私の心が言い当てられています。「心に異謀を懐いて多く不実邪命の事を現ずるが故に。此れは即ち貪と癡との一分を体と為す」と。心に自分を偽って他人をたぶらかすために謀略・謀を懐いて多く間違った生き方をするのですね。「心に意、同じきに非る異の謀計を懐いて。詐(いつわっ)て精進の儀を現ず」るのです。親鸞聖人は「愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と自身をみつめておられますね。「内は愚にて」ということが謀計を懐いてということでしょうし、「外は賢なり」が精進の儀を現すということでしょう。そして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」とあるがままに生きることを宣言なさいます。それは「貪瞋邪偽 硬詐百端(とんじんじゃぎかんさひゃくたん)にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり」(真聖P215・436)という心の中に渦巻く様々な煩悩を見切っておいでになるのです。私たちははこのことがわからないのですね。ですから煩悩に翻弄されるのです。翻って真実の業に目覚めなさいと教えて頂いているのではないでしょうか。
諂(テン―へつらう心)
『法相二巻抄』には「諂は、人をくらまかし迷はさんが為に、時に随ひ事に触れて、矯(かたま)しく方便を転(めぐ)らして人の心をとり、或いは我が過を隠す心也。世中に諂曲(てんごく)の者と云うは此心増せる人なり。」と述べられています。人を騙して迷わす為に、時に随っていろいろな方便を駆使して人を自分の方に惹きつけようとするのです。それは自分の過失を隠すためなのですね。人をまるめこみ、だますのです。人に近づいておべんちゃらを使いへつらう心をいいます。自分の本性を隠しているのが諂の特徴です。自分の本性を隠してのらりくらりとつきまとい相手に取りいろうとするのです。矯はよこしま・心がねじけて正しくないということ。 何処まで行っても悪賢く偽りしかないということなのです。諂曲は自分の本性を曲げて人の気に入るように、心にもないことをいうことなのですね。本当に自分の事が言いあてらています。此れは自分に対する貪りと道理を無視した癡から引き起こされるといいます。
『論』(『成唯識論』以後略して『論』といいます。)には、「他を網(コメ)せんが為の故に矯しく(かたましく―いつわって)異なる儀(カタチ)を設けて険曲(けんごく―よこしまに)なるを以って性と為し。能く不諂と教誨(きょうけ―誤ったものを正しく直す)とを障うるをもって業と為す。謂わく諂曲の者は。他を網悁(もうけん―網でとらえること)せんが為に曲げて時宣(じき)に随って矯しく方便を設けて。他の意を取り或いは己が失を蔵(かく)さんが為に。師共の正しき教誨に任ぜざるに故に。此れも亦貪と癡との一分を体と為す。」と説かれています。
『論』によりますと諂曲の者は師友ですね、師匠や友人の忠告を聞かない、聞く耳をもたないのです。獲物を捕えるためにじっと茂みに隠れているような猛獣みたいなものです。言葉巧みに網をかけるのです。これがへつらう心だと言っているのですね。ここには自分は存在しません。他に気に入られようとする心でいっぱいなのです。険曲は相手を自分の思い通りにしようというのに油断がないような心といわれています。『述記』には「名利を貪るが故に諂する、是れ貪が分なり。無智の故に諂するならば癡が分なり。・・・謂わく自の過を覆蔵す。・・・覆の因なり・・・罪を覆う故に・・・」と、自分の罪を覆い隠してしまうという過失が諂なのですね。「脚下照顧」もう一度自分を問い直す必要がありそうです。
害(ガイ)
「云何なるをか害と為す。」害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は、そこなう、という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つける、殺傷するということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶのです。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。
『論』には「諸の有情の於(ウエ)に心に悲愍(ヒミン―慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(ソンノウ―傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩(ヒツノウ―おしせまる)するが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」と定義されています。
害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみはぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼るのが働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分であるといわれるのです。瞋恚はものの命を断ずることなのですが(ニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。)害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分というわけですね。
私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化します。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのではないでしょうか。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうかね。
小随煩悩の最後に説かれているのが、憍(キョウ―おごる心)です。
憍はおごりたかぶることですから、慢心と同義語になりますね。「邪見憍慢悪衆生」という憍がこの心所です。自他を比べて他をしのぐ心のことをいいます。「我が身をいみじき物に思ひておごれる心なり」(『ニ巻抄』)といわれています。
『論』には「自の盛事(ジョウジ)に於いて、深く染著(ゼンジャク)を生じて酔傲(スイゴウ)するを以って性と為し。」
自の盛んなることに於いて深く執着を起こし自らに酔って傲慢になることを性質とすることが憍だというのです。自分のために自分に執着を起こし自分を満足させようとし、そのことによって自己陶酔をするのですね。「一の栄利の事に随って、謂く長寿の相等なり。即ち是は此れ興盛の事なり。」自分にとっていろいろな誇りがありますね。まぁ差別にもつながってくるのですがね。家柄・美貌・学識・健康・名誉・権力などなど他に誇りおごれるのですよ。それに酔いしれている自分がいるわけです。この酔いしれるというのは大変危険を孕んでいるのです。
聞法の落とし穴という問題もあるのですが、聞いたことが誇りになり、聞いたことに酔いしれるということが起ってくるのですね。本当に気をつけなければいけません。
「能く不憍を障えて染の依たるを以って業と為す。謂く 酔傲(スイゴウ)の者は、一切の雑染の法を生長(しょうぢよう)するが故に。此れも亦貪愛の一分を体と為す。」と定義されています。
雑染法とは、いわゆる我執です。我執があることを雑染というのですね。善も悪も無記もです、我執が働いている限り有漏法なのです。すべてが毒が混じった行為になるのです。毒とは利己性です。他の為と言いながら自分を満足させようとする心の働きをいいます。