唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (2) 概略 (2)

2015-05-24 18:57:43 | 第三能変 随煩悩の心所

 随煩悩の概略 partⅡ 小随煩悩の「誑諂與害憍」について
「誑」(オウ―たぶらかす) 
『述記』には、誑と云う心は、「自ら徳無きを偽って徳有りと詐す。」と。 詐はいつわる、あざむく、だますという虚言です。何故起こるのかと言いますと「利誉を貪するが故に。」といわれているのです。自分の利益と栄誉を貪る、つまり利誉を獲るために偽って自分には徳が有るのだというような顔をするのですね。要するに人々を欺いているわけです。「邪命を依と為す」 間違った生き方ですから邪命といいます。そのような生き方を依り処としているのですね。『論』には「利誉を獲んが為に矯しく(かたましく)徳有りと詭詐(きさ)するを以って性と為し。能く不誑を障えて邪命なるを以って業と為す。」といわれています。「あるがままの人生をあるがままに生きればいい」のですがそれができない自分がいるのです。「私はわたしになればいい」のです。それが道理なのですが、それに背いていろいろなものを身につけて自分を大きく見せようとしています。それもですね。できるだけ人の上に立ちたいからです。自分に自信をもてないのです。ですからいろいろな物を着飾って武装するのです。曽我先生は信心を「自信力」とお教えくださいましたが、その自信力がもてないのですね。何故かといいますと世間の富と栄誉に目が眩むのです。それが絶対の価値だと思い込むのですね。これが顛倒といわれることなのです。裸で生まれてきたのですから裸で生きればいいのです。ありのままの人生とはそのようなことなのではないでしょうか。それがなかなかできないのですね。自分をよく見せたいんです。これが「誑」ということです。私の心が言い当てられています。「心に異謀を懐いて多く不実邪命の事を現ずるが故に。此れは即ち貪と癡との一分を体と為す」と。心に自分を偽って他人をたぶらかすために謀略・謀を懐いて多く間違った生き方をするのですね。「心に意、同じきに非る異の謀計を懐いて。詐(いつわっ)て精進の儀を現ず」るのです。親鸞聖人は「愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と自身をみつめておられますね。「内は愚にて」ということが謀計を懐いてということでしょうし、「外は賢なり」が精進の儀を現すということでしょう。そして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」とあるがままに生きることを宣言なさいます。それは「貪瞋邪偽 硬詐百端(とんじんじゃぎかんさひゃくたん)にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり」(真聖P215・436)という心の中に渦巻く様々な煩悩を見切っておいでになるのです。私たちははこのことがわからないのですね。ですから煩悩に翻弄されるのです。翻って真実の業に目覚めなさいと教えて頂いているのではないでしょうか。
 諂(テン―へつらう心
『法相二巻抄』には「諂は、人をくらまかし迷はさんが為に、時に随ひ事に触れて、矯(かたま)しく方便を転(めぐ)らして人の心をとり、或いは我が過を隠す心也。世中に諂曲(てんごく)の者と云うは此心増せる人なり。」と述べられています。人を騙して迷わす為に、時に随っていろいろな方便を駆使して人を自分の方に惹きつけようとするのです。それは自分の過失を隠すためなのですね。人をまるめこみ、だますのです。人に近づいておべんちゃらを使いへつらう心をいいます。自分の本性を隠しているのが諂の特徴です。自分の本性を隠してのらりくらりとつきまとい相手に取りいろうとするのです。矯はよこしま・心がねじけて正しくないということ。 何処まで行っても悪賢く偽りしかないということなのです。諂曲は自分の本性を曲げて人の気に入るように、心にもないことをいうことなのですね。本当に自分の事が言いあてらています。此れは自分に対する貪りと道理を無視した癡から引き起こされるといいます。
 『論』(『成唯識論』以後略して『論』といいます。)には、「他を網(コメ)せんが為の故に矯しく(かたましく―いつわって)異なる儀(カタチ)を設けて険曲(けんごく―よこしまに)なるを以って性と為し。能く不諂と教誨(きょうけ―誤ったものを正しく直す)とを障うるをもって業と為す。謂わく諂曲の者は。他を網悁(もうけん―網でとらえること)せんが為に曲げて時宣(じき)に随って矯しく方便を設けて。他の意を取り或いは己が失を蔵(かく)さんが為に。師共の正しき教誨に任ぜざるに故に。此れも亦貪と癡との一分を体と為す。」と説かれています。
 『論』によりますと諂曲の者は師友ですね、師匠や友人の忠告を聞かない、聞く耳をもたないのです。獲物を捕えるためにじっと茂みに隠れているような猛獣みたいなものです。言葉巧みに網をかけるのです。これがへつらう心だと言っているのですね。ここには自分は存在しません。他に気に入られようとする心でいっぱいなのです。険曲は相手を自分の思い通りにしようというのに油断がないような心といわれています。『述記』には「名利を貪るが故に諂する、是れ貪が分なり。無智の故に諂するならば癡が分なり。・・・謂わく自の過を覆蔵す。・・・覆の因なり・・・罪を覆う故に・・・」と、自分の罪を覆い隠してしまうという過失が諂なのですね。「脚下照顧」もう一度自分を問い直す必要がありそうです。
 害(ガイ)
 「云何なるをか害と為す。」害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は、そこなう、という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つける、殺傷するということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶのです。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。
 『論』には「諸の有情の於(ウエ)に心に悲愍(ヒミン―慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(ソンノウ―傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩(ヒツノウ―おしせまる)するが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」と定義されています。
 害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみはぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼るのが働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分であるといわれるのです。瞋恚はものの命を断ずることなのですが(ニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。)害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分というわけですね。
 私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化します。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのではないでしょうか。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうかね。
 小随煩悩の最後に説かれているのが、憍(キョウ―おごる心)です。
 憍はおごりたかぶることですから、慢心と同義語になりますね。「邪見憍慢悪衆生」という憍がこの心所です。自他を比べて他をしのぐ心のことをいいます。「我が身をいみじき物に思ひておごれる心なり」(『ニ巻抄』)といわれています。
 『論』には「自の盛事(ジョウジ)に於いて、深く染著(ゼンジャク)を生じて酔傲(スイゴウ)するを以って性と為し。」
 自の盛んなることに於いて深く執着を起こし自らに酔って傲慢になることを性質とすることが憍だというのです。自分のために自分に執着を起こし自分を満足させようとし、そのことによって自己陶酔をするのですね。「一の栄利の事に随って、謂く長寿の相等なり。即ち是は此れ興盛の事なり。」自分にとっていろいろな誇りがありますね。まぁ差別にもつながってくるのですがね。家柄・美貌・学識・健康・名誉・権力などなど他に誇りおごれるのですよ。それに酔いしれている自分がいるわけです。この酔いしれるというのは大変危険を孕んでいるのです。
 聞法の落とし穴という問題もあるのですが、聞いたことが誇りになり、聞いたことに酔いしれるということが起ってくるのですね。本当に気をつけなければいけません。
 「能く不憍を障えて染の依たるを以って業と為す。謂く 酔傲(スイゴウ)の者は、一切の雑染の法を生長(しょうぢよう)するが故に。此れも亦貪愛の一分を体と為す。」と定義されています。
 雑染法とは、いわゆる我執です。我執があることを雑染というのですね。善も悪も無記もです、我執が働いている限り有漏法なのです。すべてが毒が混じった行為になるのです。毒とは利己性です。他の為と言いながら自分を満足させようとする心の働きをいいます。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (1) 概略 (1)

2015-05-24 11:07:58 | 第三能変 随煩悩の心所
  ブログでは煩悩の心所が終わりまして、煩悩の心所を承けて随煩悩の心所が説かれてきます。
 講義の方は初能変の一番大切な、四分三類唯識半学といわれている、認識はどのように成り立っているのかを学んでいます。本質・影像・見分・相分・自証分・証自証分という熟語がでてきます。非常に理解不能と云いますか、認識の摩訶不思議なことを解明しているわけですね。
 認識問題については、近代哲学においても重要な課題であり、認識問題を本質的な原理から解明しようとしたフッサールの現象学をも学び、洋の東西を問わず、現代の思考方法に沿った中で解明していく必要があるように思います。哲学は非常に苦手な分野でありまして、哲学を学ぶためには、哲学史を学ぶことが基本姿勢と云われているように思いますが、如何に学ぶのか、ほんまにしんどい作業です。僕が勝手に法友と思っている菊池 萠嬢の思索の深さには感服するものがありますが、僕のそばにこんなにも思索の深さを探求されているかたがおいでになることは、非常に心強いものがあります。彼女の思索の道程は『アポロンの雄鳥』に連載中ですので、是非読んでいただきたいと思います。ご一報いただければ送付いたします。第一号・第二号が世に放たれています。

 随煩悩について(概略)
 随煩悩についてですが、本頌では第十二頌の後半第三句から第十四頌の上二句までに説かれています。本日は、第十二頌の後半部分の「随煩悩と云うは、謂く忿と恨と覆と悩と嫉と慳と」の概略を説明します。そして大随惑の散乱・不正知の概略を説明し終わりまして、『成唯識論』に随って考究を進めたいと思います。
  随煩悩は根本煩悩に付随して起きる煩悩のことです。「論」には小・中・大の随煩悩として三類に分けています。「小」は各別に起きる、各々別々に働く煩悩です。「中」は遍不善つまり六識の不善の働きに必ず見られる煩悩のことです。「大」は染心に遍ずといわれ、六識と七識つまり七識全体に働くといわれているのです。不善は善にあらずということですから悪です。それに対し染心は煩悩に染まっているということですから悪でもあるし、第七識の有覆無記・無記だけれども我執に覆われているということ。我執に染まっているのであるということです。  随煩悩の二十種は類別なること三有り。謂く忿等の十は各別に起こるが故に小随煩悩と名け。無慚等の二は不善のみに遍ぜるが故に中随煩悩と名け。掉挙等の八は染心に遍ぜるが故に大随煩悩と名く。
 「意識には十を具す。」第六意識には全ての煩悩・随煩悩が働くといわれます。それだけではなく、善の心所も働くのです。世の流れに流されるのではなく、自分の意思を以って涅槃に向かう生き方ができるのです。私たちは目覚めているときは必ず何かを意識しています。「あれをしよう・これをする」と名言によって意思決定しているのです。それが第六意識に於いてなされていますから、此の第六意識が重要な役割をもっていると言えるのです。煩悩に翻弄されるか、善に向かうかの鍵を表層の意識がもっているのです。選択肢はいろいろあるのでしょうが、どの道を選ぶのかの決定は今の意識が握っているのですね。それほど此の第六意識は大切な心の領域なのです。私たちは常日頃様々な事に煩い悩んでいますが、その煩い悩みをしっかりと受け止めて善の方向(聞法)に一歩を進めてみませんか。
 第一番目は忿(フン)という心です。「いかりの心」。瞋恚も怒りの心なのですがこの瞋恚に寄り添って「かっとなる」いかりです。瞋恚は心の中でぐっとこらえている状態の怒りで、それが直接的な行為となって現れたのが忿という「瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用(ユウ)無きが故に」煩悩ですね。何故起こるのかと云うとですね。これは自分に対する非難や自分が脅かされる状況になった時、自己防衛の形で急激な怒りがでてくるのです。「かっとなり暴力をふるう」ということがありますね。怒りは耐えなければならないのでしょうね。そうでなければ「多く暴悪なる身表業を発すが故に」といわれています。身体をもって表に現すということですから暴力をふるう・手を振り上げるということでしょう。どれだけ耐えることがあっても、手を振るあげるという行為が身を滅ぼしますから、忿という煩悩の出てくる元をしっかりと観察していかなければなりません。 
 これまでいろいろな煩悩について学びましたがこれは他人事ではなく私自身の心を言い当てられているのですね。私の心のありかたがこのように多様にわたっているのです。合わせ鏡のように私の心の状態が透き通って露にされています。『成唯識論』の記述は「現前の不饒益(フニョウヤク―自分にとって都合の悪いこと)の境(対象)に対するに依って墳発(フンポツ―ムカッとし打ちのめすこと)するを以って性と為し。能く不忿を障へて杖(じょう)を執るを(凶器をもつこと、あるいは手をあげること)業と為す。謂く忿を懐く者は。多く暴悪なる身表業(表から見える身体の行動)を発するが故に。此れは即ち瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用無きが故に。」(腹を立てることによって凶器を持ち人を打ちのめそうと思う程に怒る心)であるといわれているのです。しかしですね。腹を立てる心を抑えて堪えていますと、恨みが生まれてきます。言い当てられますね。いろいろな状況の中で許せないと思うことがあるわけですが、表にはそのような姿は見せません。心の中で堪えているわけです。でもね、ごく普通に恨みが芽生えてくるんです。これが「恨(コン)」という煩悩なのです。
 「忿を先と為すに由って悪(にくしみ)を懐て捨せず。怨みを結ぶを以って性と為し。能く不恨を障へて熱悩(頭に血が上ってカッとなる)するを以って業と為す。謂く恨を結ぶ者は。含忍する事能はず。(じっと堪えることができない)恆に熱悩するが故に。(いつも・常に悶々とした状態で熱悩しているのです。)此れも亦瞋恚の一分を以って体と為す。瞋に離れて別の恨の相・用無きが故に」(「恨は、人をうらむ心なり。恨みをむすぶ人は、おさえ忍ぶ事あたわず、心のうち常になやまし)といわれるように、怒りの心を抑えて悶々としていますと,恨みや・根に持つという心がふつふつと湧き出てくるのです。
 補足説明 ― 忿・恨・悩・害・嫉は瞋恚の一分・ニ河譬の火の河で瞋憎 
        覆・慳・誑・諂・憍は貪欲の一分・ニ河譬の水の河で貪愛
 この随煩悩は意識に伴いますから間断のある煩悩です。
 しかし貪愛・瞋憎は第七末那識の我愛によって執着されますので間断がなく四六時中働き続けているといわれています。私が意識する・しないに拘わらず深層の意識は自己を愛着し、自分の思うようにコントロールしつづけているのです。そして縁に触れ表の意識に現れてくるのです。信心とはこの心の在り方を見定めることなのではないでしょうか。
 「云何なるか覆(フク)と為す」。次に「覆」について語られます。
 「覆」はおおうということですが、何を覆うのでしょうか。自分にとって都合の悪いことを覆うのですね。身に覚えがあります。いつもそうですね。隠しますわ。追求されると余計に隠します。どうにもならなくなった時に観念するのですが、ただ観念するのでは無いですね。怒り、腹立ち、恨みが心の中に芽生えます。どうにもこうにも救われがたいですね。そのような私ですが「覆」について考えてみたいと思います。ここは本当に大事なところですのでじっくりと考えたいのです。何が本当か、嘘か誠かを知っているのは自分なのですね。それを自分の都合、自分にとって何が利益をもたらすかを判断して真実を覆い隠してしまうのです。自分の心の中に閉じ込めてしまうと言った方がいいのかもしれません。ばれる時のことを思うとハラハラドキドキです。すでにここで後悔し、悩んでいるのです。後でばれると「あの時本当のことを言えばよかったと」後悔し悩むのですけれどね。くよくよしますね。心は悶々状態です。いつばれるか判らない悶々と、ばれてしまったという悶々で身動きが出来ない状態になりますね。これが「覆」という随煩悩なのです。 
 「自の作れる罪に於いて利誉(りよ)を失うを恐れて隠蔵するを以って性と為し。能く不覆を障へて悔悩(ケノウー後悔して悩むこと)するを以って業と為す。謂く罪を覆う者は。後に必ず悔悩して安穏ならざるが故に。」といわれています。
 『述記』によりますと「自ら罪を造りおわって財利・名誉を失うことを恐れるが故に、隠蔵を以って性と為す。・・・罪を覆う者、心憂悔す。此れに由って安穏にして住することを得ず」と説明しています。
 自分が築きあげてきた財産や名誉が一たびの罪に依って失ってしまう恐れがある時に、やっぱり守りたいですよね。ですからひたすら隠すのです。しかし心は憂い後悔するのですから平穏ではいられないのです。そしてこの「覆」は貪と癡のとの一分に摂められるといわれています。これはですね。因縁の道理を無視していますから惑・業・苦の法、セオリーです。こうすればこうなるのだという縁起の理を無視をして罪を隠すのですから癡の一分に摂められるのですね。そして財利や名誉に執着していますから貪の一分にも摂められるのではないでしょうか。自分を守りたいが為に嘘をついたり隠し立てをしたりするとですね、自分が安穏といわれる、安らかに穏やかに生活が出来ない状況に追い込まれるということになるのでしょう。心してこの「覆」という随煩悩を自分に問うて行かなければ成らないと思うことです。
 次に「悩(ノウ)」についてですが、
「忿と恨とを先と為して。追触暴熱(ツイソクボネツ)して很戻(コンライ)するを以って性と為す。」と定義されています。
 先の忿と恨を心の中にもちつづけける、すなわち怒りと恨みを心の中に蓄えてもちつづけ、折に触れ思い出してまたカッとなって腹が立つのですね。「很戻」は很はさからうという意味・戻は「もとる」と読み、これもまたさからうという意味なのです。『漢語林』によりますと「ねじけもとる・道にそむく」とあります。很はもと・る。戻はもと・る。そむく・たがうという意味でねじまがるという意味もあるそうです。おそらくは怒ったり怨んでいることに由ってひがみっぽくなるのでしょう。『二巻抄』では「悩は、腹を立て人を恨むるに依って、ひがみもとおれて心の中常になやます。其の言はカマビスク・ケワシク・イヤシク・アラクシテ・ハラグロク、毒々しき心なり」と説明しています。これは蛆螯(だっしゃく)の具体性を述べているのです。螯ははさみですね。毒虫が挟んで刺す様を蛆螯というのです。ひがみ事が捻じ曲がって心が常にいらいらするのですね。いらいらしますと暴発しますよね。そのことが自分の心を刺して(悩み苦しめ)、やがて相手にも暴言を吐いて悩み苦るしめることになるのです。カマビスクは囂(かまびすし・いー騒がしい)ということになり、荒々しく毒々しく相手を罵倒し咬みつくような暴言を引き起こすほどの怒りの心を「悩」というのです。自分の中だけで収まればいいのですが、この「悩」という心所は「他を蛆螯する」といわれているのです。「此れも亦瞋恚の一分を体と為す」。のです。先の『二巻抄』の説明はひじょうにわかりやすいのですが『論』には「謂く往悪を追い現の違縁に触れて。心便ち很(ひがみ)戻りて。囂暴(ゴウボウ―騒がしく、荒々しい)凶鄙(クヒ―言葉がきたない・凶も鄙も卑しいという意味)の 跏言(ソゴン―荒っぽい言葉)を発して他を蛆螯するが故に」と述べられています。囂暴凶鄙跏言(ゴウボウクヒソゴン)には「サハカシク・アシク・イヤシク・アラキ」と説明が施されています。瞋恚は自分の心の中で渦巻いている怒りですが、それが縁に触れ忿となり恨みを懐きやがて俗に言う汚い言葉ですね、そのような暴言です、大きな声を発して相手を威嚇し辺りかまわず騒がしくするのですね。それによってですね。相手をも悩ませることになるのでしょう。逆に言うと、辺りかまわずわめき散らし暴言を吐く背景には瞋恚という自分の心の中のわだかまりが因となっているのでしょう。ですから相手を攻撃していると思っているのだけれども、本当は自分を蛆螯(ソシャ・因が転じて他者に乱暴な言葉を浴びせること)していることになるのではないでしょうか。
 次の「嫉(シツ)」とは嫉妬心ですね。妬み心です。自分には何の関わりがなくても他人が成功したこと等に妬むのです。お子さんをお持ちの方なら経験がおありになると思いますが、卒業式等で、成績優秀な生徒やスポーツで頑張った生徒が表彰されますね。そうしましたら「うちの子はなんであかんのやろ」と呟くのです。これが嫉妬心につながるのですね。人様を素直に喜んであげれない自分がいるわけです。
 「自の名利を殉(モト)めて他の栄に耐えずして妬忌(トキ)するを以って性と為し。能く不嫉を障えて憂 慼(ウチャク)するを以って業と為す。」といわれています。自分の名利を貪り求めて他の人が栄えたり、幸福であるのが耐えられない。そして妬み憎悪する。これが嫉の性格であるといっているのです。憂はうれい・ 慼(せきーうれい)これは自分で悶々とするのでしょう。そして腹が立って安穏とはしていられない状態になるのではないでしょうか。
 嫉の次は「慳(ケン)」という心が説かれています。欲深く物惜しみする心のことです。「財と法とに耽著(タンジャク・度を越して執着すること)恵捨(えしゃ)すること能わずして秘吝(ヒリン・大切にしてぐっと握って離さないこと。秘は秘密、秘かに・吝はおしむ。けちということ)するを以って性と為し。能く不慳を障えて鄙畜(ヒチクー鄙はいやしい・畜はたくわえる・いやしく蓄えるということ)するを以って業と為す」と言われているのです。
 鄙畜という財と法に執着して人に施さないという心が人間をきたなく・いやしくするのですね。
 『述記』の説明には「秘は蔵なり。慳は惜しむなり。慳の異目なり。鄙は鄙悪・畜は畜積、積集の異名。鄙悋慳澁(ヒリンケンジュウ)するを以って捨てることあたわざると名づく」、といわれています。
 財物と教法に執着するのですね。要するにケチなわけです。教えるということもですね、出し惜しみするわけです。隠し持って一番大事なことは教えないのです。この様な「慳悋(けんりん)の者は、心に多く鄙澁(ひじゅう)し財と法とを畜積(チクシャク)して捨する能わざるが故に。此れは即ち貪愛の一分を体と為す」と『論』には述べられています。財でも法でもつかんだら離さない。人のために施すことはもってのほかである、これは物惜しむということではなく、卑しくけちなわけです。この心が人間を小さくするのですね。この様な人には人を育てることは出来ないのでしょうね。またこの様な人に人はついてはいかないのでしょうし、このような人間にはなってはいけないことを教えているように思います。