唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (99) 三断分別門 (13)

2015-05-06 09:46:03 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
  
 Golden weak も今日まで、僧侶の方々にとっては、休日はあってないようなものですから、どのようにお過ごしなさいましたかは愚問ですね。この休みはよく歩きました。畿内の街道は、京都・奈良の古都を中心に、比叡山・高野山に、そして北は北陸道、南は熊野街道につながっているのでした。
 それ以前の大坂は、荒地であり、湿地帯であったのですね。淀川と大和川にはさまれて、たびたび大洪水にみまわれていたようです。しかし、土地の利便性を考えた時、瀬戸内海や外海を結ぶ交通の要所として開拓する必要に迫られていたことが背景にあり、渡来人の土木技術を借りながら、大掛かりな淀川左岸の築堤作業に取り組むことになったのです。それが仁徳天皇の十一年といわれ、『日本書紀』に、茨田堤の築堤工事の様子が描かれています。実際行われたのかどうかはわかりませんが、人身御供の記事もみえ、古代の神と人間との関係を垣間見ることができました。強頸絶間(コワクビタエマ)と、衫子絶間(コロモコノタエマ)の神話ですね。
 その後、淀川の洪水は収まりましたが、河内国の人々はその後16世紀まで大和川の洪水に悩まさることになるのです。遂に宝永元年(1704)に大和川の付け替え工事が行われることになり、わずか八か月で、今の大和川に変化したのですね。
 
 道明寺小学校のHPに、次のような記事が掲載されていました。(詳しくはHPをご覧ください)
 「付け替え以前の大和川は、大阪平野に入ると何本もの川に分かれて北へ向かって流れていきました。二つ
の大きな池(浅くて部分的には湿地帯)をつくって、大阪城の北で再び一つになり、北から来る淀川と合流して大阪湾へと
流れて行きました。
 この分流してから再び合流するまでの流路でたびたび洪水が起こり、この河内平野一帯では水との戦いの長い歴史がく
り広げられてきたのです。では、なぜそんなに洪水が続いてきたのでしょうか。

宿命の天井川
 この旧大和川流域の多くは、もともとは海でした。生駒山地と上町台地の間(図1)の河内平野は古代の大阪湾とも言え
る河内湾という入り江でした。縄文時代のことです。やが弥生時代の頃には河内潟となり、さらには河内湖となりまし
た。北からの淀川、南からのの大和川、二つの川が運んでくる砂によって、だんだん小さく浅くなっていったのです。特
に南から来る大和川の流れはたくさんの砂を運び、南から順々に湾を埋めていきました。
 山間部を抜けて広い平地部に出た川は、自然と何本にも分かれ、増水するたびに氾濫をくり返しては砂をまき散らして
いったのです。こうして北へ北へといくつもの川筋が伸びていき、陸地が広がっていきました。土地の傾斜が大変小さく、
低地性扇状地形といわれるものです。流れのゆるやかな時には川底に砂がたまりやすく、やがてこれらの川筋は川底が周
囲の土地よりも高い天井川となっていきました。
 川筋を表す細かな等高線を見ると、川筋の部分で下流に向かって等高線の曲がりが出っ張っています。鳥の足跡みたい
な形から鳥肢状と言われる、典型的な天井川の地形です。谷を流れる川筋だと、等高線はV字形で下流に向かっていきま
す。

くり返す洪水
 天井川であるということは、いったん洪水が起きると、氾濫した水はなかなかもとの川には戻りません。川底を掘って
も、もともとの地形のでき方からして、また同じように天井川になっていってしまうのです。堤防をかさ上げしても、や
がて川底がさらに上がり、また堤防を高くする、というくり返しです。これは困ったものです。
 洪水がおきやすい原因がもう一つあります。いったん分流した流れが大阪城の所で一つになり、淀川と合流していまし
たが、広範囲で雨が続いた時には淀川の流れの勢いの方が強く、大和川の流れが入り込みにくいということがあったので
す。深野池や新開池が遊水池の役目をしていましたが、これにも限度がありました。
 このように、大和川は、地形のでき方からどうしても洪水が起きやすいという宿命を背負った川として、多くの河内の
人々を苦しめてきたのです。
   ※ 淀川も後に近代の治水事業で新放水路が造られました。明治の中頃から事業が始まり、明治43年(1910年)に
    新淀川が完成しました。大阪城の方へ流れる旧淀川は、現在は大川と呼ばれています。」

 この記事からも伺えますが、古代大坂の治水事業は難関をきわめたのですね。私たちは、当たり前のようにして日暮をしていますが、当たりまでは無いことを教えられます。古代から悠久の時を経て、その恩恵の上に生きさせていただいていることを忘れてはならないと思いますね。


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 今日は、相応の無智と不共の無明についての続きです。
 『述記』には、相応の無智について、九(癡を除く九の煩悩)と相応する無智は、九の煩悩の所応に随って、親迷と疎迷に於いて苦諦の理に迷うのであると述べています。そして、不共無明は、苦諦の理を了解することができずに、親しく苦諦の理に迷うのである、と教えています。
 相応無明 ― 諸煩悩と相応して生起してくる無明ですから、薩迦耶見・辺執見・邪見のように直接的に迷う煩悩と相応する時は、相応無明は親迷になり、貪・瞋・慢・見取見・戒禁取見のように、苦諦の理に間接的に迷う煩悩と相応する時は、疎迷になります。
 不共無明 ― 独行無明とも云われます。単独で四諦に迷う在り方を云います。恒行不共無明と、独行不共無明に分けられますが、昨日説明しましたので省略します。

 「疑と及び邪見は親しく集等に迷う、二取と貪等とは苦に准じてまさに知るべし。」(『論』第六・二十二右)
 これまでは苦諦に迷う諸煩悩の在り方をまなびましたが、今回は苦諦以外の集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について釈されます。何故、八煩悩かといいますと、薩迦耶見と辺執見はただ苦諦にのみ迷うと述べられていましたので、ここでは除いています。しかし、厳密に言えば、三諦に迷うのであるが、ここでは説かない、という立場ですね。
 「集・滅・道の三に於て、ただ八有る中に、二見(身・辺)を除くが故に。疑と及び邪見と不共無明とは、親しく集等の三諦に迷う。然るに実には身・辺の二見が別に三諦に迷うこと有るも、八有りと説けるを以ての故に。略して論ぜず。二取と貪等とは、前の苦に准じて説く。二見は集・滅・道の下に無きを以ての故に。又ただ親迷なり。」(『述記』第六末・六十一・左))
 疑と及び邪見と不共無明は、三諦に迷う親迷であることを明らかにしています。そして、二取(見取見と戒禁取見)と貪等(等は等取。貪・瞋・慢と相応無明)とは苦諦に准じて知るべきである、と。
 准じてということですから、なぞらえて、苦諦の所論と同じように知るべきである、ということですね。
 貪・瞋・慢・戒禁取見・見取見は苦諦に対して疎迷であることから、三諦に於いても疎迷である、ということになります。疑・邪見と相応する相応無明も、苦諦に准じて、三諦に於いても親迷である。貪等と相応する無明も、苦諦に准じて、三諦に於いては疎迷であるということになります。  つづく