唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(43) 別境・独並門

2013-04-10 06:41:57 | 心の構造について

この科段より、護法の正義が述べられます。二段に分けられて説明されます。初は、五識における五別境の有無について、その中が三段に分けられ、初に、五識には欲・勝解・念の三つが存在することについて説明されます。次に、五識に定が存在することが説明され、後に、五識に慧が存在することを述べています。
 後は、因位と果位の五識における五別境の有無について説明されます。

 本科段は、初の初が述べられています。

 護法の正義

 五別境である欲・勝解・念・定・慧は、五識にも存在することを述べる。三段に分けられる。

 (1)欲・勝解・念について 

 (2)定について 

 (3)慧について説かれる。

 「有義は、五識にも此の五有る容し。境の於に増上に希望すること無しと雖も、而も微劣に境を楽う義有るが故に。境の於に増上に審決すること無しと雖も、而も微劣に境を印する義有るが故に。曾習の境の体を明記すること無しと雖も、而も微劣に境の類を念ずること有るが故に」(『論』第五・三十三左)

 『新導本』p230の科文に依り、三段に分けて説明します。

  初は、欲・勝解・念について、五識にも存在することを説く。

 護法は、五識にも別境の五の心所は存在すると説く。何故ならば、五識は境に対して、増上に希望することが無いといっても、しかし、微劣に境を楽う義(五識が、現在の認識対象を認識する時は、第六意識に引導され、わずかに希望し、現在の認識対象を楽うからである)がある。それは、五識は第六意識に引かれて起こるからである。よって、五識に欲の心所は存在し得るという。また、同じように勝解の心所は存在し得る、また、同じように念の心所は存在し得るのである。

 『述記』(第六本上二十四左)の記述は、

 「述して曰く。第二師の云く。五識にも亦決定して此れ有るに非ず。或いは有る時に皆具に有る容し。若し上の意識の増上に未来の境等を希望する時、即ち五識にはなけれども、現在の境を縁ずるときには、意に引かれるに由って生じ、微劣の希望して、亦現の境を楽うが故に欲有るなり。八は意に引かれるに非ず。任運に生ず。境に於て楽わず、故に欲無きなり。五識には増上に境を審決すること、第六識の如くに無しといえども、意に引かれるい由るが故に、また微劣に境を印する義有り。五識には第六識の曾所受の境体を念ずる念は無しといえども、また意に引かれて、微劣に、現の境のうえに念ずること有り。現在の境はこれ過去の類なり。現在を念ずるが故にまた念有り。若し第六識ならば、また過去曾受の境体を念じ、亦現在曾受の境類をも念ず。故に増上なり。皆意に引かれて生ず。」

 念も五識に存在する、という『述記』の論述は「五識には第六識の曾所受の境体を念ずる念は無し」と。五識は第六意識のような曾って認識した認識対象の体を念ずるような念はないけれども、第六意識に引かれて、現在の認識対象は「現在の境はこれ過去の類なり」といわれていますように。これは、第六意識の曾習の境から見ると類境になるわけです。したがって、五識は、現在の境しか認識できないが、過去の境を現在の類境として認識して念を生起させるのであるという。五識に欲・勝解・念が有るということは、「皆意に引かれて生ず」といわれているわけです。

 (「論。有義五識至念境類故 述曰。第二師云。五識亦非決定有此。然或有時容皆具有。若上意識増上希望未來境等。即五識無。縁現在境由意引生。微劣希望亦樂現境。故有欲也。八非意引任運而生。於境不樂故無欲也。五識雖無増上審境如第六識。由意引故亦有微劣印境義也。五識雖無如第六識念曾所受境體之念亦有意引微劣於現境上念也。現在之境是過去之類。念現在故亦有念也。若第六識亦念過去曾受境體。亦念現在曾受境類故是増上。皆意引生。」(『述記』第六本上・二十四左。大正43・432b~c)

 体境・類境のニ義について、『述記』の論述は、「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれています。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さが教えられています。聞法を通して、我執を縁として必至滅度の道が開かれるのですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれています。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界(浄土)の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。