唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(34) 第二、六二縁証 (③)

2012-04-12 22:59:31 | 心の構造について

 後は諸部派を論破する。論破の中に四つの説が有る。初は薩婆多(説一切有部)等の説を論破する。初の句は喩である。(二は上座部、三は経量部、四はまとめて論破する。)

 「謂く、五識の如し。必ず眼と等しく増上なり。不共なり。倶有なる所依有るべし。」(『論』第五・十一左)

 (つまり、五識のように、必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依が有るであろう。)

 何故、諸部派を論破して、末那識の存在を証明するのは、部派は末那識の存在を認めていないので、前六識から末那識の存在を証明しようとしているのです。

 『新導 成唯識論』巻第五p12には、二種の読み下しがされています。上記の読みと、

 「謂く、五識の必ず眼等の増上なり、不共なり、倶有なる所依有るが如し。」(つまり、五識には、必ず眼等の増上であり、不共であり、倶有である所依があるようである。)

 と、性相門による解釈が述べられています。上記は因明門による解釈で、『述記』の解釈になります。『述記』にはこの科段は「喩」であると述べています。つまり、第六識も五識のように、意識が成り立つには、根と境が必要であることを喩を以て明らかにし、末那識の存在を証明しているのです。

 「意識は、既に是れ六識の中に摂めらるるをもって、理いい是の如きの所依有ると許す応し。」(因明門)

 「意識も、既に是れ六識の中に摂めらるるをもって、理いい是の如きの所依有ると許す応し。」(性相門)

 因明門による解釈は

「五識の如く」が同喩(宗・因・喩の三支作法のなかで、宗(主張)と因(理由)に対して同じ類としてあげられる喩)になり、宗は「(意識は)必ず眼と等しく増上なり。不共なり。倶有なる所依有るべし。」と。因は「既に是れ六識の中に摂めらるるをもって」となります。

 「意識は」、有法(前陳)です。因明における宗の主語の部分です。(AはBであるという主張の主語の部分)、前に戻ります。