唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(36) 第二、六二縁証 (⑤)

2012-04-14 23:39:48 | 心の構造について

 昨日からのつづきになります。 「次第滅の意と及び現の本識を因縁との所依を簡ぶ。逆に次第して配すべし。此をば宗法と為す。」(「述記」)と説明があり、これは第六識は五識のように、ここからですね。「増上・不共・倶有」なる所依が有る、と述べられています。ここで述べられているのは、第六意識が生起するのは、増上縁依(倶有依)であり、因縁依ではない。そして不共である。共依は除外される。「現の本識」、即ち阿頼耶識ですね。阿頼耶識を除外する、と。「次第滅の意」を除外する。「次第滅の意」は等無間縁依(開導依)のことであり、前滅の第六識をあらわし、第六識と同時に存在するわけではないので除外されます。

  • 逆次第 - 果から因へと逆にさかのぼっていく順序。『述記』の記述は『論』の記述と逆の順にのべているのです。次第滅の意を除外することから、因縁の所依を除外することへ、これを「逆に次第して配すべし」と。

論。謂如五識至倶有所依 述曰。破中有四。初總破薩婆多等。初句是喩。下簡次第滅意・反現本識・因縁所依。逆次第配。此爲宗法。」(大正43・411c)

 (述して曰く。破の中に四有り。初に総じて薩婆多等を破す。初の句は是れ喩なり。下は次第滅の意と、及び現の本識と、因縁との所依を逆に次第して配すべし。此れは宗法と為す。」(『述記』第五末・二十五左)

 (1)次第滅の意(前滅の第六識)と(2)現の本識(現行している阿頼耶識)と(3)因縁依(種子依)との三の所依を逆に次第して配す。前滅の第六識を意根としてこれを第六識の根と為すのではない、前滅の第六識は現の第六識と同時に存在するものではないから所依の根とはなり得ないのです。これをもって有部の説を論破します。次に上座部の説を論破します。上座部は色法を第六意識の所依とすると説いていますが、意根は色法ではく、もし意識が色法を所依とするならば、随念と計度の勝れた分別がなくなってしまうからです。経量部の説のように、五識には倶有所依がなく、前念の五根が後念の五識を生じ、意識も亦前念の意識が後念の意識を生ずというものでもない。五識と五根とは同時に存在し、活動すること、恰も芽と影(身と影)のようだからである。これらの法は所依の根とはなり得ないことを述べ、諸部派の主張を論破しているのです。各項目については順次述べられます。

 「論。謂如五識至倶有所依者。有義彈疏釋云。若是宗法何故乃云必有眼等。今解。謂如至倶有依皆同法喩。即以此喩所簡別法爲其宗法 詳曰。依義寛通。擧眼所1以簡餘非者。斯亦何違。若言喩者何假置彼必有之言。觀諸因明未見喩中有此例故。必有定義。宗有無失。下總量云。必有不共顯自名處是宗法也。又總是喩。更有何法是所簡者。將以爲宗。若言意根即是所簡。文既不言應是意許。若如是者。豈此宗法唯有意許無言陳耶。又未曾見以喩所簡別法爲宗。准此則應先擧於喩後方言宗。以喩簡彼宗法過故。以此而言知疏無謬。」(『演秘』大正43・904a)

 (「論。謂如五識至倶有所依者」は、有る義は疏の釈を弾じて云く、若し是れ宗法ならば何が故に乃ち必有眼等と云う。今解すらく(有る人の理解)、謂如より倶有依に至る皆同法喩なり。即ちこれの喩を以て簡ぶ所の別法を其の宗法と為すと。詳らかにして曰く、依の義は寛(因縁依・等無間縁依等)通(親疎)せり。眼の所以(所依)を挙げて余の非を簡ぶことは斯れ亦何んぞ違せん。若し喩と言わば何んぞ彼の必有の言を置くことを仮らん。諸の因明を観ずるに、未だ喩の中に此の例有ることを見ず。故に必ず有とは定の義なり。宗に有ということ失無し。下に(必ず不共なり、自の名処を顕す。等無間に摂めらえず、増上なる生所依有るべし」の文)総じて量して云く、必有不共顕自名処と、是れ宗法なり。又総じて是れ喩ならば更に何れの法の是れ簡ばるる者有りて、将に以て宗と為さん。若し意根は即ち是れ所簡なりと言はば、文に既に言はず、応に是れ意許なるべし。若し是の如くならば豈此の宗法は唯意許のみ有りて、言陳無からんや。又未だ曾って喩に簡ぶ所の別法を以て宗法と為すことを見ず。此れに准ぜば則ち応に先ず喩を挙げて後に方に宗を言うべし。喩は彼の宗法の過を簡ぶを以ての故に。此れを以て言はば、疏は謬り無しと知るなり。」)

 安田理深先生は「根という意識は、厳密に規定されてあって、増上と不共と倶有という三つの条件でもって根という。この三つが完備する根は、因縁ではなく増上縁である。因縁ならば阿頼耶識から生ずる。根と識との関係は、因縁の関係ではなく増上縁の関係である。増上縁は独立したものと独立したものとの関係である。五識は五識の種子から生ずるというのは因縁、根はどこまでも増上縁としての所依である。不共というのは、五根によってそれぞれ五識が生ずるように、意識にはそれ独自の所依がなければならぬ。・・・意識には意識独自の所依がなければならぬというのである。阿頼耶識は共依である。阿頼耶識そのものは増上縁にはなりうるが、共通の所依である。そうでなく不共の所依、独自の根拠が無ければならぬことを不共という。倶有は同時ということ。能依と所依が同時である。・・・眼根と眼識は同時。これから押すと、意識も、過去の識が現在の識の根にはなりえない。意識も五識と同じく識である以上、根が無ければならぬ。こう考えると、説一切有部の過去の識というのは、意識の所依の場合にのみいうのであるが、五識ではいえぬ。これでは倶有という条件を満たさない。つまり小乗では意根の問題は解けぬ。そこで、経量部では色法だという。しかし、これもいえぬことである。色法は無分別、意識は分別である。」(『選集』第三巻p178)と有部の説と経量部の説の難点を指摘されています。