伏断位次門(ブクダンイジモン)
「阿羅漢位捨」(アラカンニシャ)阿羅漢の位に捨す(第四頌第三句)を釈します。
問。 この識(阿頼耶識)は、無始のときより恒に動きつづけて連続していることは、ちょうど河の流れ、瀑布の流れのようである。このような流れの中で、流転の人生が「これでよかったんだ」といえるような人生に頷きを得るには、どのような階位で、究極的に阿頼耶識を捨て得るのであろうか。
答(頌を挙げて答す) 阿羅漢の位で究極的に捨てるのである。
つまり、諸の聖者が煩悩障を断じることにおいて究極的に尽きる時を阿羅漢と名づける。
その時には、この阿頼耶識のなかに執持(蓄積され保持)されている 煩悩の種子を永遠に遠離しているので、それを説いて「捨」とするのである。
(注)煩悩の麤重(ソジュウ)とは、
「此の麤重の言は、煩悩の種(シュウ)を顕す。対法論等に種子を麤重と説くが故なり。煩悩の現行をも亦麤重と名づけ、無堪任性(ムタンニンショウ)をも亦麤重と名づくと雖も、然も今は但だ種子のみを取って余には非ず。」(『述記』大正43・341a)
第一師(護法正義)
阿羅漢の意味(通釈)
このなかに説かれている阿羅漢とは、三乗(声聞・独覚・菩薩)の無学果の位を云う。
(注)阿羅漢とは
阿羅漢 (あらかん、サンスクリット:arhat अर्हत् アルハット)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語。略称して羅漢(らかん)ともいう。旧訳には応供(おうぐ)という。新訳(玄奘訳)では応と訳されています。
「応とは契當(カイトウ)の義なり。・・・阿羅漢を応と言うことは即ち、殺賊(セツゾク)と応供と無生との三の義の故なり。」(『述記』大正43・341b)
第一は殺賊
永遠に煩悩の賊を殺害している。(煩悩の種子を断尽したという意味)
(注)『遺教経論疏節要』に、
「諸の煩悩の賊とは、三毒煩悩、人の法身の慧命を殺すなり」(大正40・850a)
『観無量寿佛経疏』(天台大師智顗)に、
「煩悩賊とは、此れ能く慧命を損し法身を傷(イタメ)るが故に名づけて賊と為すなり」(大正37・191b)
第二は応供
世間の心のこもった供養を受けえる徳を備えているからである。
第三は無生
永遠に、生死輪廻する分段生を受けない。
外人(ゲジン)の問
どうして、それを知ることができるのか?(根拠を問う)
論主の答(菩薩は阿羅漢ではないと論証する)
『瑜伽論』摂決択分(巻第五十一。大正30・582a)には、「諸の阿羅漢・独覚・如来は、みな阿頼耶を保持しつづけてはいない」と説かれているからである。また『大乗阿毘達磨集論』巻第七(大正31・692c)には、「また、もし諸の菩薩は、菩提を得ようとしたとき、たちどころに(速やかに)煩悩と所知の二障を断じて阿羅漢と如来の境地を完成する」と説かれているのである。
外人の問
もしそうであるならば、菩薩は煩悩の種子をまだ完全に断じ尽くしているわけではない。菩薩は阿羅漢の位に至っていない場合は、みな阿頼耶識を保持していることになるであろう。なぜ、『瑜伽論』摂決択分に「不退の菩薩もまた阿頼耶識を保持していない」と説かれるのか?(不退の菩薩・八地以上に菩薩)も阿羅漢位の中に入れるべきではないのか、という問い質しです。)
また明日にします。