『倶舎論』に於ける種子論は経量部の説なんですね。世親菩薩は破我品を以て『倶舎』の結論としましたが、有部の説ではないのです。ここを衆賢は見抜いていたのですね、そして『順正理論』を著すことになります。
有部は三世実有の立場ですが、経部は現有過未無体という大乗と同じ立場に立ちます。経部と大乗では何が違うのか、それは種子論が違うのですね。種子生現行の種子が現行する時、現行熏種子の熏ぜられるところが違うのです。経部は、色と心とで種子を持すと説きます。経部の相続はこの主張の上に成立し、転変、差別も説かれます。
このことは今回の講義でも、問題になりました。再録しますと、
「経部師等の説を破す。(諸部を破斥する第三)
「経部師等の因・果相続すというも、理亦た成ぜず。彼、阿頼耶識有りて能く種を持すと許さざるが故に。」
注 経部は、有部の三世実有法体恒有にも、上座部の生滅二時説でもなく、現有過未無体という大乗と同じように現在の法のみが有で、過去・未来は無であるという説によって因・果相続の理を説きます。しかも大乗と同じく種子を説きますから、非常に近い説ということになります。しかし、経部は色法と心法とで種子を持すと説き、阿頼耶識を説きません。この説は成り立たないのです。何故なら、色法も心法も断絶する時があるからです。阿頼耶識を説かない経部の説は間違いということになります。
(経部師等が、因果は相続するというが、道理が成り立たない。何故なら、経部師等は阿頼耶識があって、種子を保持するということを認めていないからである。)
阿頼耶識が無ければ、種子を保持することは出来ず、因果の道理も成り立たないのです。阿頼耶識にたって因果相続を見ていかない限り、因果の道理は理解できない。
総結して信を勧む
「此れに由りて応に大乗の所説の因・果相続すという縁起の正理を信ずべし。」
(このようなわけで、大乗で説く所の因果は相続するという縁起の正理を信じなさい。)」
此れを見ても分かりますように、経部が説く、相続・転変・差別は業を先として後に色心に種子を熏じ、その種子が間断が無いのを相続と云う。この相続の後後の刹那前前に異にして生ずることを転変と云う。この転変は、最後の時に於いて、勝れた効果があって、無間に果を生じて、余の転変に勝れているので差別と云うのだと。
因 果
色法 - 種子 - 心法
心法 - 種子 - 色法
経部は体を立てないのでしょうね。色法は相分、心法は見分とし、相分の種子と見分の種子が展転して無間に果を生ずるというのですが、迷いは説明できると思います、しかし、解脱は説明がつかないのではないですか。
少し視点をかえまして、「見えるものはあるのか?」仏教認識論的視点から、熊谷誠慈氏の所論を伺ってみますと、
《経量部の認識プロセス》
「経量部にとって、外界の対象とは「知を生じさせる能力を持つもの」、すなわち認識を引き起こす原因である。外界の対象は、原子の集合体であるがゆえにそれ自体は独立的存在
ではないが、対象が外界に存在したその次の瞬間に、眼・耳・鼻・舌・身といった感官の知覚を生起させ、その次には意知覚、さらにその次の瞬間には概念知を生じさせるという。この点、説一切有部との大きな隔たりに注目する必要がある。すなわち説一切有部が、ある瞬間の対象を同じ瞬間の認識主体が認識するという「同時認識」を主張するのに対し、経量は、対象を認識するのは次の瞬間の認識主体であるという「異時認識」を提唱するのである。この両者の認識形態の相違は、ふだんまったく影響するところはないが、日常生活のスケールを大きく超えた領域では明確な差を生む。たとえば、今見ている太陽を私たちは現在のものと誤認しがちであるが、光のスピードと太陽と観測者までの距離を計測してみると、約8 分20秒前の過去の太陽であることがわかる。これは太陽が地球からはるか遠くに位置するために生じる非日常的な時間上のギャップであるが、この理屈からすると、われわれの眼前に存在するものもまた、私たちが認識したその瞬間にはすでに過去のものになっていることが類推されよう。このように、科学的視点からすれば、経量部の学説が説一切有部のそれよりも正確であると言える。」
この所論からも窺えますように、現有そのものも、刹那の時間の中では過去のもの、つまり、有為転変する有漏の世界には常はないということを論証されているのですね。