唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (87)九難義 (27) 第五 色相非心難 (2)

2016-09-25 14:05:49 | 『成唯識論』に学ぶ


 『述記』によりますと、「摂論の第四の無著の頌本なり」と注釈がされてあります。釈は世親菩薩と、無性菩薩の二つがありますが、『演秘』には「無性釈して曰く」と無性摂論を以て解釈されているようです。
 一応読んでみたいと思います。先ず『論本』を読みます。
 「若し此の諸識も亦体是れ識ならば、何の故に乃ち色性に似て顕現するや。一類にして竪住し、相続して転じ、顚倒等の諸の雑染の法の與に依処と為るが故なり。若し爾らざれば非義の中に於て義を起す顚倒は応に有ることを得ざるべし。此れ若し無ければ、煩悩所知の二障の雑染も応に有ること得ざるべし。此れ若し無ければ諸の清浄の法も亦応に有ること無かるべし。是の故に諸識は是の如く転ずべし。此の中に頌有り、
 乱相(ランソウ)と及び乱体とを、応に許して色識と、及び非色識と為すべし、若し無ければ余も亦無し。」
 (注)
 乱は心等の妄倒。みだれること。相は因。色識を以て因とし、妄心を起す。定まった心に於いてと云われています。散乱は定の於に起こってくる事柄なんですね。つまり、定まった心に於て心が外界に流れて散乱することを云い表わしているのです。
 乱体なのですが、諸識であると云われています。転識ですね。転識の所依は末那識ですから、乱相は色識(所変)、色識と非色識が乱体(能変)になります。
 ここで外道からの問いが出されます。
 「若し外の色有りと許さざれば、云何ぞ色に似て現ずるや」と。
 答えは、外境が問題ではなく、乱相・乱体を起してくることが問題であると云うのです。乱相・乱体が無かったならば、色識・非色識も無いのである、と。
 「若し所変の似色の乱因無ければ、能変の乱体も亦有ることを得ず。境の因はよく心の果を生ずるが故に。」
 顚倒は煩悩障・所知障の二障が因と為って生起するのであると明らかにしているのですね。二障を因として生起するのが顚倒なのですね。
 顚倒の見と云いますが、はっきりしていることは、煩悩を依処としていることなんです。煩悩は何処から生起してくるのか、煩悩が我見から生起してくるのですね。我が身可愛いと云うことから離れられない自身の問題なのです。
 本科段は、自他分別を起こす側からの批難であって、応答は、自他分別は自の問題であると明確に述べているのです。

 参考文献
『摂大乗論本』(無著造玄奘訳)
 「論曰。若此諸識亦體是識。何故乃似色性顯現。一類堅住相續而轉。與顛倒等諸雜染法爲依處故。若不爾者。於非義中起義顛倒應不得有。此若無者。煩惱所知二障雜染應不得有。此若無者。諸清淨法亦應無有。是故諸識應如是轉。此中有頌 亂相及亂體 應許爲色識 及與非色識 若無餘亦無。」(大正31・138b)
『摂大乗論釈』(世親菩薩造玄奘訳) 
 「釋曰。一類堅住相續轉者。由相似故名爲一類。多時住故説名堅住。諸有色識。相似多時相續而轉。顛倒等者。即是等取諸雜染法與煩惱障及所知障爲因性故。爲依處者爲彼因性。若彼諸識離如是轉。於非義中起義心倒應不得有。此若無者。若煩惱障諸雜染法。若所知障諸雜染法應不得有。於此頌中顯如是義。亂相亂體如其次第。許爲色識及非色識。此中亂相即是亂因。色識爲體。亂體即是諸無色識。色識亂因若無有者。非色識果亦應無有。」(大正31・339a)
『摂大乗論釈』(無性菩薩造玄奘訳)
 「釋曰。若此諸識亦體是識等者。此問色識一類堅住相續轉因。言一類者是相似義。前後一類無有變異。亦無間斷故名堅住。即此説名相續而轉。與顛倒等諸雜染法爲依處故者。等即等取煩惱業生諸雜染法。眼等諸識與顛倒等諸雜染法。作所依處。所依處者即是因義。故者須也。觀彼問意而作此答。謂無義中顯現似於眼等諸識。一類堅住相續而轉。由此起彼顛倒等法。若不爾者。若不如是轉。於非義中起義顛倒。應不得有。若無顛倒。煩惱所知二障雜染應不得有。無因縁故。若無雜染清淨亦無。要息雜染顯清淨故。是故諸識應如是轉者。眼等諸識應如是轉。爲不因力諸法得生非須力耶。不爾隨問1興答言故。彼問所須不問因種。由彼不執別有諸色。但問何須。阿頼耶識變作諸色。不唯作識故作此答。亂相許爲似色變識。亂體許爲非色變識。順結頌法故文隔越。其義相屬。若無似色所變因識。非色果識不應得有。以若無境有境亦無、」(大正31・401a)